というよりも、有り余っていた。管理し切れずに放置された土地は荒れ果て、あたかも草原と化した場所もあちこちにあった。
こうした現状を打開するため、政府は桑や茶を植えたいと希望する者に余剰の土地を払い下げる。荒廃した東京の武家地を桑畑や茶畑に生まれ変わらせることで生糸や茶の生産(輸出)を増やし、国を富ませようという一石二鳥の目論見が込められていたが、失敗に終わる。
牛乳の需要増加を見据え、同じく殖産興業の一環として牧場に変身した土地も少なくなかったが、桑茶政策の失敗により、荒廃した土地が減ることはなかった。
そのため、土地の需給バランスが崩れた東京では地価が暴落する。当時の経済不況が追い打ちをかけた格好だが、その結果、現在ではとても信じられない事態も起きていた。
後に総理大臣となる大隈重信の下で改進党や東京専門学校(現早稲田大学)の創設に関与し、衆議院議員も務めた市島謙吉は当時の土地事情を次のように証言する。
旧幕府時代は各藩が江戸に参勤交代したため、大江戸八百八町は繁栄したが、今や東京は空虚となった。非常に荒廃して人心も兢々、帝都の前途もどうかと危ぶまれるばかりであった。それゆえ土地などは、ほとんど無代価に等しかった。「土一升、金一升」といわれた大江戸の土地も同様で、買う者はいなかった(市島謙吉「明治初年の土地問題」『史話明治初年』の記述を要約)。
需給バランスが崩れたことで東京の地価が暴落し、買い手が付かないほどだった実情が語られている。「土一升、金一升」とは1升の土を買うには同量の金が必要というように、土地の値段が非常に高いことを意味するフレーズで、東京では日本橋などの一等地を指した。そんな東京の一等地でさえ、当時は地価が非常に安かった。
一等地でも現在の価格で1坪200~300円
危機感を強めた政府は三井家などの豪商に、その管理を押しつける。当時、三井家は政府の御用を請け負っており、その要請を断われない立場にあった。政府御用達、いわゆる政商である。
押しつけられた豪商にしてみれば迷惑この上なかったが、渋々払い下げ願を提出して受け取った。払い下げられた地所には板で囲いをすることが義務づけられたものの、何もせず放置した。その費用を下回るほど、地価が安かったからである。
当時は、土蔵と門構え付きの土地が1坪で2銭5厘だった。現在の貨幣価値に換算すると、1坪で200~300円ぐらいだろうが、それでも当時は高いとされた。
高級官吏となると数千坪レベルの広大な土地を住居として与えられた。大隈重信などは築地にあった旗本戸川安宅の屋敷約5000坪を下賜され、後に「築地の梁山泊」と俗称される屋敷となる。