現在の日本橋は1911年に完成した。完成当時はどのように評価されていたのだろうか。

橋の架け変えプロセスについて、読売新聞が詳しく報じている(以下、同紙からの引用は、適宜、歴史的仮名遣いや旧字を書き改めた)。まず、1908年に始まった工事の様子を手厳しく批判する記事がある。

男女の一群唄を歌ひ、拍子をとりて鉄錘を引きずり上げ、これを落としては、又唄ふ、その悠長なること、まことに言語道断の至りなり。(1909年4月16日)

記者によれば、「時は金なりとの思想」のなかった江戸時代ならば木遣りを唄うことも許された。だが、「労働の効果によりて、国の強弱が定まらんとする今日」には、こうした怠惰は許されない。工事は3年予定だが、低く見積もっても「その一年半は木遣りの為に費さるる」。そのために「交通不便を忍ぶ所の東京市民は、よくよくおめでたき人民」だという。日本橋とは近代化の象徴であり、江戸の前近代性の対極に位置づけられていたことがわかる。

1911年4月3日に日本橋は開通した。4月1日から3日間、読売新聞は「日本橋開通記念号」を発刊した。記念号の主な記事を掲載順に挙げると次の通りである。

●塚越停春「日本橋の歴史」
●工学博士・塚本靖「西洋の橋と日本橋」
●文学博士・関根正直「高札と捨て札と落し話」
●工学士・田邊淳吉「記念建造物としての日本橋」
●関巖二郎「浮世絵史上より見たる日本橋」
●主任技師・工学士 米元晋一「竣工後の感想」
●黒田鵬心「シンボルとしての日本橋」
●八十六歳 齋藤あい「日本橋今昔物語」
●笹川臨風「橋頭語」
●饗庭篁村「江戸の通人と日本橋」
●某工学博士「建築家の見たる日本橋」
●黒頭巾「趣味の日本橋」
●如来「日本橋の女」
●岡野知十「俳句に於ける日本橋」
●大島宝水「江戸時代の日本橋」

寄稿は、日本橋を歴史や風俗とからめて論じたものと、橋の設計や装飾を論じた建築学的なものに大別できるが、後者からの批判は手厳しい。

「失敗」「貧相」「残念」日本橋完成当初の悪評

工学博士・塚本靖によれば、まず材料からして「今頃石でコツコツやるのは古い」。特に裏のほうまで花こう岩を使ったのは「馬鹿な話」で、それだけ金があるなら装飾に費やすべきだった。橋のアーチが2つというのも面白くない。川幅が短いのだから、1つにするか、3つにして両端2つを小さくしたほうが「美観上非常にいいし」、1つであれば船の通行に便利であった。そして、橋上に高架鉄道を通したパリや、船に合わせて開閉するロンドンのタワーブリッジを例に挙げ、機能的にも審美的にも日本橋はいまいちだと批判する。

工学士・田邊淳吉は、「欧州の橋と比べてもコムポヂションから見れば恥ずかしくない」としつつも、装飾や意匠を非難する。まずは「貧相な四角なおむすびのような飾り」だ。架け換え前の橋にあった擬宝珠の名残りだというが、「その不調和な形のマヅイ事はお話にならぬ位」であり、「日本橋そのものをスポイル」している。

画像/著者提供

次に橋の上部と下部の色の不一致である。橋の路面は白いが、欄干上の飾柱は青銅製だ。これを日差しの下で見れば、白い路面だけが目立ち、飾柱は黒い棒になってしまう。田邊は「色々の点から見て日本橋は意匠設計の上に何等の連絡も何等の統一もない、根本的に失敗して居る事を自分は大いに残念に思ふ」としている。

田邊の批判は東京市の都市計画にも及ぶ。そもそも橋を造る時、「本来ならば日本橋とその周囲とを相関連させて設計しなければ」ならなかった。田邊は周囲の建物の高層化も見通していた。近い将来、橋の周りの建物は高層化されれば、日本橋の装飾や色、柱の太さ、デリケートな彫刻は効果を発揮しないというのである。