「自律した、理性的な個人」は幻想

このような「自律した個人」「理性を使って自己決定できる個人」という近代的な人間像は、いまとなってはもはや「神話」のごとく扱われている。なかでも、最近のベストセラー『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社)は辛辣だ。近代の輝かしい成果と考えられているアメリカ独立宣言は、古代バビロニア帝国のハンムラビ法典と同様に「間違っている」というのだから。

<ハンムラビもアメリカ建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない>

いずれ『サピエンス全史』はじっくり取り上げようと思うので、今回は深入りしないが、程度の差こそあれ、「近代的な自律した個人なんてフィクションだ」という批判は事欠かない。この連載でも、人間はバイアスまみれだってことをさんざん説明してきた。

デカルトの「もし私が学問においていつか堅固でゆるぎのないものをうちたてようと欲するなら、一生に一度は、すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない」(『省察』井上庄七・森啓訳、中公クラシックス)といったフレーズは、何度読んでも痺れるものがある。

でも、この連載でやっていきたいのは、「デカルトを見習って、すべてを疑え」とか「ニーチェのいう超人を目指せ」といった類の自己啓発ではない。別に自己啓発本が嫌いなわけじゃないし、むしろけっこうな数の本を読んでいる。「嫌われる勇気」も持ちたいし、タスク管理を駆使して、テキパキ仕事したいとも思う。

ただ、企業不祥事のような問題に対して、「なぜ誰も止められなかったのか?」と個人の理性をアテにするのは無理筋だ。そのぐらい、個人の理性は心もとないと踏んだほうがいい。

しかも集団となれば、バイアスの罠がそこらじゅうに仕掛けられている。その罠に引っかからず、「三人寄れば文殊の知恵」にするにはどうしたらいいだろうか。次回は、そんなことを考えてみたい。

(宇佐見利明=撮影)
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