企業不祥事は「頼りない集団的知性の極北」

そこで、先の思索とつながってくる。どれだけ見聞を広めても、真理はわからないのだから、一人でゼロから考えたほうが、真理に接近できるのではないか、と。

<結局のところ、習慣や実例のほうが、どんな確実な知識よりもわたしたちを納得させているが、それにもかかわらず、少しでも発見しにくい真理については、ただ一人の人がそういう真理を見つけだしたというほうが、国中の人が見つけだしたというより、はるかに真らしいから、賛成の数が多いといっても何ひとつ価値のある証拠にはならない>

他人の意見はアテにならない。頼れるのは、己の純粋な思考のみ。23歳のデカルト青年は、独力で哲学の原理を打ち立てることを心に誓った。その18年後、彼は、あらゆるものを疑い尽くした末に、疑う自分の存在だけは疑いえないことを発見し、「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理を宣言することになる。

話を戻そう。なぜ、企業の不祥事とデカルトの思索が関係するのか。

不祥事を起こした企業は、きまって質の悪い内集団バイアス、要するに身内優先のバイアスに染まってしまっている。そしてそれは、デカルトが批判の矢を向けた、頼りない集団的知性の極北にあるような事例だからだ。

企業不祥事は、三人寄れば文殊の知恵のどころか、悪だくみや隠蔽工作に転化してしまっている。ってことは、デカルトにならって、独力でバイアスを克服するべきなのだろうか。

近代西欧の哲学や思想は、おおむねそれを肯定するだろう。『方法序説』は、「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」という有名な一節から始まっている。誰もが、真偽を正しく見分けられる理性や良識を平等にもっている。でも、持っているだけでは不十分で、「大切なのはそれを良く用いることだ」と、自己啓発っぽいことをデカルトはいう。

理性万歳! 理性を正しく用いれば、偏見や思い込み、アホくさい因習は撃退できる。企業不祥事なんかありえない。近代の思想家たちにとって、一人ひとりに宿る理性こそ、人間最強の武器だったのだ。