一人ですべてを行えば間違いは起きない?
東芝の粉飾決算やら、フォルクスワーゲンや三菱自動車のデータ改ざんやら、一年に一度か二度は、大企業の不祥事が発覚している。そんな事件を知るにつけ、デカルトの言葉が頭をよぎる。旅先であるドイツ・ウルム市郊外の炉部屋(暖炉のある暖かな部屋)にこもり、デカルトはこんな思索に耽るのだ。
<たくさんの部品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない>(『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫)
「いったい、何の話?」と思って読み進めると、同じような例が次々と出てくる。建物は、何人もの建築家が古い建物をリフォームするより、一人の建築家が新しくつくるほうが壮麗だとか、偶然にできた大都市より、一人の技師が平原に線引きした都市のほうが整然としているとか。
さらに話は法律や宗教にも及ぶが、言いたいことは変わらない。要するに、一人の賢い立法者や唯一の神が、法や掟を定めたほうが、秩序のある集団になるというのだ。
前回(http://president.jp/articles/-/21692)述べたように、デカルトは、あっちこっちを旅して、先々で巡り会った人々が自分と反対意見を持っているからといって、彼らが野蛮でもバカでもないことを学んでいる。いわば、文化相対主義的な感覚を身につけたといっていいだろう。
が、それだけでは満足できかった。自国の文化と、他国の文化とでは行動習慣も考え方も違う。本を読んでも、哲学者が正反対のことを言っている。ならば、真理はどこにあるのか? 違いがわかるだけでは、真理には到達できない。