絵描きになりたかったが、医者の道へ
【田原】鍵本さんの半生を聞かせてください。もともと医者志望だったのですか。
【鍵本】いえ、まったく。うちは父が内科で、姉が皮膚科の専門医。ただ、私は中学校のころから描き始めた油絵の世界に魅せられて、本気で絵描きになろうと思っていました。医学部志望に舵を切ったのは高2のころでした。芸大を受けたいと父に言ったら、「何のために進学校に行っているんだ」とこっぴどく叱られまして(笑)。考えてみると、私が尊敬する画家たちは必ずしも芸大に行ったわけではありません。また、いい絵を描くには人間を知る必要があります。人間を学ぶには医学部もおもしろいと思って、進路を変えました。
【田原】医師になってからは眼科をやられた。どうして眼科ですか。
【鍵本】父は内科で血液学をやっていました。血液学には体系だったエレガントさがあって、医学を志す者にとって憧れの学問の一つです。ただ、父の考えは違いました。「血液学者は偉そうな顔をしているが、本当は血液学者が偉いわけではない。イノベーションが起きたのは生化学の領域。血液はサンプルを取りやすくて実験しやすいから、生化学のイノベーションをいち早く取り込んだだけ」。これを聞いたときに、逆にいま他領域のイノベーションを取り込めていない診療科のほうが将来性があるんじゃないかと思い、眼科を選びました。
【田原】眼科は遅れているからこそ、これからイノベーションが起きるということ?
【鍵本】そうです。九州大学病院に薬の処方の本があるのですが、当時、眼科に割かれていたのは3ページだけ。ばい菌を殺す抗菌剤、ステロイド、緑内障の薬の3種類しかメジャーな薬がないという状況でした。いくら何でも、このまま進歩がないはずはないですからね。
3人の患者との出会いで、創薬の道へ
【田原】そこで聞きたい。九州大学病院で実際に患者を診ていたわけですが、どうして臨床から創薬のほうにシフトしたんですか。
【鍵本】背景には3人の患者さんとの出会いがあります。1人目の患者さんは、大学に合格したのですが、健康診断で悪性のがんが見つかり、あと3カ月しか生きられないことがわかり入院されていた方です。私は実習でその方に病態を聞く必要がありました。しかし患者さんは一言も口をきいてくれなかった。それはそうですよね。これから人生が始まると思っていたところに、余命3カ月と宣告されたのですから。その様子を見て、生きている人間はそれだけで恵まれているのだから、生きている時間を無駄にできない、意味のあるものにしなくてはいけないという思いを強くしました。
【田原】2人目は?
【鍵本】2人目は私が眼科で診た患者さんで、目と脳をつなぐ視神経が腫れていました。病気自体はステロイドを投与することでよくなりました。ところが退院してから1カ月後、ご家族から「自殺をした」と連絡がありまして……。
【田原】どうして自殺したんですか。治ったんでしょう?
【鍵本】視力は回復したのですが、検査しても腫れの原因はわかりませんでした。原因が不明なので、視力が戻った後も不安に駆られていたそうで。この経験から、臨床で症状をよくすることも大切だけど、わからないものをわかるようにする、あるいは治らないものを治るようにする研究に、より大きな意味があるのではないかと思ったんです。
【田原】あともう1人は?
【鍵本】3人目は、いま我々が治そうとしている加齢黄斑変性で苦しまれていた患者さんです。両目とも失明されていて、「生まれた孫娘の顔をまだ見てない」と。たまたま自分の父と同じ年頃の方ということもあって、私にとっても他人事ではなく感じられました。それなのに、臨床医としては「治療法はありません」というしかない。ならば、治せる薬をつくることに自分の人生を使ったほうがいいのではないかと考えました。
【田原】つまり、臨床では限界があるから、薬をつくろうと思ったわけね。
【鍵本】そうです。ヘリオスの会社のロゴは3本の線からできていますが、そのデザインにはいまお話しした3人の患者さんが表現されています。みなさんとの出会いがなければ創薬ベンチャーを立ち上げていなかったと思います。