スピード感のある開発はベンチャーだからできる

【田原】薬をつくるなら、大学で研究してもいい。でも起業の道を選んだ。どうしてですか。

【鍵本】シリコンバレーに行った経験が大きかったですね。大学を卒業後、スタンフォード大学の友人の寮に転がり込んで3カ月ほど滞在しました。向こうではジェトロ(日本貿易振興機構)にお世話になって、バイオテクノロジーを調査するインターンをしていました。そのとき新しい薬を製品化していくバイオベンチャーの力強さに感心しました。父は大学で研究をしていたのですが、大学には大学のミッションがあって、研究していることがそう簡単に製品にならない。スピードを求めるなら、やはり製品を出すことだけに集中している民間企業のほうがいいなと、当時から考えていました。

【田原】新薬をつくるなら製薬メーカーで研究する道もありますね。既存の大企業じゃダメですか。

【鍵本】組織が大きいと、組織を説得するというところにエネルギーを取られてしまいます。一方、ベンチャーはそもそも薬を出すという目的に納得している人しか入らないので、「この薬、どうですか」などという稟議はいらない。シリコンバレーでそのことを学びました。

田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。若手起業家との対談を収録した『起業のリアル』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】実際に会社をつくったのはいつですか。

【鍵本】1社目のアキュメンバイオファーマ(現アキュメン)を立ち上げたのは、研修医が終わった2005年。28歳のころです。

【田原】この会社で、加齢黄斑変性を治そうと?

【鍵本】目標には掲げました。しかし、経営者としての力不足で、そのときは加齢黄斑変性を治す薬は出せなかった。そのかわり、九州大学の眼科の先生が発明された「BBG250」という薬の製品化には成功しました。目の手術で使う補助剤で、いまでは世界中の眼科医へのアンケートで63.1%の方が「目の手術で使う補助剤は『BBG』が一番いい」と回答する製品に成長しました。

【田原】製品化は簡単にできるんですか。

【鍵本】いや、それはもう紆余曲折ありまして。アメリカで「第III相試験」を行ったのですが、非常に残念なミスをしまして。

【田原】ミス?

【鍵本】BBGを1年間保存した後、粉にして濃度が変わっていないかどうかを調べる試験があります。このとき比較対象となる保存前のBBGの粉を適切に管理できておらず、試験をやり直しすることになりました。問題になったのは湿度です。湿度が低いと粉は軽くなり、高いと重くなりますが、その管理ができていなかったのです。

【田原】それで1年を棒に振ったわけですか。

【鍵本】時間の問題だけではありません。当時リーマンショックがあって、もともと投資環境は厳しかったですが、そこにミスが重なり、提携先から「基礎的な試験で失敗するような会社に追加投資はできない」といわれてしまいました。その結果、27名の社員を3名まで減らさざるをえなかった。患者さんのためになる仕事をしたいといって入社してくれた志の高い社員たちに離れてもらわなければならず、つらい思いをしました。

ビジネスは勝たなくては意味がない

【田原】資金がなくて、どうやって製品化に漕ぎつけたのですか。

【鍵本】オランダのDORC社と提携して、ヨーロッパで製品化しました。BBGはアメリカや日本だと薬になりますが、ヨーロッパでは医療機器。CEマークという規格を満たせば販売が可能です。ただ、これも販売後に大きなピンチが訪れまして。ドイツの企業に訴訟を起こされたんです。

【田原】どういうことですか。特許を侵害したとか?

【鍵本】逆です。BBGの特許は九州大にあって我々が契約しています。ところが、ドイツの企業は「日本の小さなベンチャーに製品化ができるわけがない」と考えたようで、特許侵害して勝手に商売をしていた。いざ我々が製品化して販売を始めると、慌てて「特許は無効だ」と訴えてきたのです。

【田原】裁判になったんですか。

【鍵本】最終的にはハーグの欧州特許庁で裁判になりました。詳しい話は省きますが、論点は4つあって、その4つすべてで防衛できないと、特許が無効になります。当時20億円の資金調達をしていましたが、もし負けたらすべて吹っ飛んでしまう。裁判は1日かけて行われ、結局我々が勝ったのですが、本当にストレスの大きい1日でしたね。

【田原】よく勝てましたね。

【鍵本】気持ちとしては殴り合いの喧嘩です。日本人の発明は優れているが、ビジネスは弱いとよくいわれます。たしかにお人好しじゃ、この世界で生きていけない。勝たないと意味がないと思って踏ん張りました。