互いの不完全さを認め合う
【藤野】東洋には「不完全は完全である」という考え方がありますが、僕はその考え方が好きなんです。徳川家康にもそのような考え方があったようですね。日光東照宮の陽明門には猿の絵が描かれており、一つの柱だけ猿の顔が逆さに描かれていますが、これは「完成した瞬間に崩壊する」と考えた家康による意図的なミスだと言われています。完璧に仕上げるのではなく、未完成のままにすることよって永続させよう、と家康は考えたわけです。
【若新】その考え方は、僕の研究テーマにも通じます。僕が違和感を覚ることのひとつに、社会人として働くとき、早い段階で完成体が求められることがあります。いま「22歳新卒採用」が企業への入り口になっていますが、その実態は“完全”という虚構同士のマッチングです。“よく働く新卒の若者”という虚像と、“若者を大事にする企業”という虚構。だから入社や採用のあとに「そんなはずじゃなかった」となるわけで。
大事なことは、お互いに不完全であることを認め合ったうえで、どう手を取り合って、補い合っていくかだと思います。むしろ、若者は自分たちがどれだけ不完全な存在かをプレゼンし、企業が「それでもいいね!」といって採用するくらいじゃないと。僕が企画している採用プロジェクトでは、それを徹底しています。やりすぎてむちゃくちゃになることもありますけど(笑)。
【藤野】採用活動における面接は、本来、自分たちに合った人を採用するためのものだったはずです。けれども、“理想的な就活生”という虚像を求めるあまり、「面接でうまくコミュニケーションができるかどうか」が採用の基準になってしまった。その結果、発達障害やコミュニケーション障害の人たちが就職できる余地が極端に狭くなってしまったのです。昔は、そういう人たちはコミュニケーション能力に問題があっても、特殊な能力を持つケースもあったので、職人的に採用されて活躍した人がいたものです。
【若新】そう考えると、昔の社会には、許容の幅があったんでしょうね。それは、やさしさとは違って、ある程度の幅のなかで僕らのズレや偏りが認められていたということです。ところが、いまの時代は、ものすごく限られた範囲や枠に収まる人だけが許容されて、そこから外れた人は社会的福祉で保障しようとする。福祉って、やさしさのように思えて、やさしくできないことへの後ろめたさのような気がします。ほんとうのやさしさとは、手を施すことではなくて、幅を認めることだと思うんですよね。