なぜエリートは起業に向かないか
では、そんな信頼度100%の起業家はいったいどこにいるのでしょう。石に齧り付いてでも経営を軌道に乗せて、ハイレベルな目標を達成するような人材は、どこに存在するのでしょうか?
実を言うと、そうした人材の多くは、いわゆるエリートではない、人生で挫折を経験しているような人です。嘘だと思ったら、ジャスダックに上場しているベンチャー企業の経営者の学歴を調べてみるといいでしょう。中卒、高校中退、高卒の人が大多数です。なぜ、そうなのかといえば、そこには神道が深く関わっています。
最初に申し上げたように、日本の神道は多神教です。多神教とはさまざまな価値が並び立つことを認める宗教です。日本に仏教を広めた聖徳太子は、17条憲法の中で「和を以て貴しとし、忤ふる(さからう)こと無きを宗とせよ」と言っている。異質なものと協調して、無闇やたらと争いを起こすなという意味です。つまり、聖徳太子は仏教の布教に尽力しつつ、神道を排除せよとは言っていない。共存せよとおっしゃっているのです。この「異質なものと共存する和の精神」こそ、まさに多神教の神髄です。
こうして日本では仏教伝来以降も、神様と仏様が仲良く共存しながらやってきたわけですが、明治維新によってその関係に大きな変化が起きました。中央集権国家をつくる必要にかられた明治政府は、神道を一神教的な国家神道につくりかえてしまったのです。
国家神道は異質なものを排除しつつ、一方で和の精神だけを強調しました。その結果、明治以降のわが国には、「異質なものを認めない和の精神」がはびこることになった。元来、個性の発揮をよしとしてきた多神教国家が、人と同じこと、人の輪から外れないことを要請する国家に変質してしまったのです。こうした風土は戦後も変わることなく、家族主義的な企業文化に継承されていきました。
「和」とは本来、自立した個が協調することを意味しますが、それを「みんな同じ」にすり替えてきた近代の日本で、真に個性的な人間がエリートになることなどありえません。彼らが個性を発揮して人生一発逆転を目指すとしたら、起業が残された数少ない道の一つです。
私が信頼するのは、頭のいい、お行儀のいいエリートではなく、あまりにも個性が強すぎて仲間外れにあったり、学校で先生から目をつけられたりしてドロップアウトせざるをえなかった、そしてそれを乗り越えて充実した人生を本気でつくり上げていこうとする人材です。そんな人こそ、石に齧り付いてでも事業を成長させる根性を持っている。
かく言う私も、若い頃はやんちゃでした。そうでなければ、アルビレックス新潟を立ち上げるなどという大それたことは、考えもしなかったでしょう。今の日本を前進させていくのは、大きな挫折を経験し、それを高い志で乗り越えようとする人たちであると感じています。
1949年、新潟市の神主の家に生まれる。国学院大学卒業後、77年に宮司となる。同年、新潟総合学院を開設。96年、アルビレックス新潟の代表取締役に就任。観客動員数でJリーグ記録を更新し、2003年にJ1昇格を果たす。