人間の本質にかかわる「信頼」について、世界の宗教はどのように扱ってきたのだろうか。宗教家への取材から、その意外な解釈が見えてきた。
800万の神はすべてお見通し
私が地元新潟の起業家を支援する組織を立ち上げたのは、2001年のことです。ベンチャー起業家に対する投資の是非を決めるには、相手が信用するに足る人間かどうかを見極める必要があります。
起業家支援をやっていると、実にいろいろな人種が近寄ってきます。プレゼンがやたらにうまい人とか、経営理論に異様に精通している人とか、そんな一見優秀そうな人がたくさんやってきては、「私に投資してくれ」と言うわけです。立て板に水のプレゼンを聞き、素晴らしくよく出来た事業計画書を見せられると、すぐにでも素晴らしいベンチャー企業が立ち上がるように錯覚してしまいがちです。
しかしそんなとき、お宮で育った私は、ものごころついたときから言われ続けてきた言葉を思い出すことにしています。
「神様が見ているよ」
「お天道様が見ているよ」
ご承知のように、日本の神様は八百万の神です。日本人は、森羅万象すべてのものに神が宿ると考えてきました。お天道様とは天照大神のことで、いわゆる太陽神ですが、天照大神はあくまでも八百万の神の象徴的存在であって、唯一絶対の神様ではありません。
つまり、「神様が見ている」「お天道様が見ている」とは、たとえ誰の目からも見えない場所、隠れた場所であっても、神様は人間を取り巻いている森羅万象に宿っておられるのだから、すべてをお見通しだよという意味なのです。
むろん、キリスト教のような一神教にも神様に見られているという感覚はあるでしょうが、一神教で大切なのは神様との契約です。契約をきちんと守っているかどうかが重要なのです。しかし、神道では、契約を守っているかどうかではなく、自分を取り囲んでいる八百万の神に対してやましいことをやっていないかどうかが大切なのです。“ベンチャー詐欺師”の口車に乗ってお金を注ぎ込んでいては、いくらお金があっても足りません。正直言って、数少ないものの、私も過去にそうした経験をしていますが、信用できる人間を見抜く眼力を養うことができたと思います。