漫才への火花は消えていなかった

さて、小説では2人は頻繁に会って、居酒屋やアパートで繰り返し語り合い、神谷は徳永に笑いというものを伝授しようとする。それはもはや、芸人の生き方についての形而上学的な議論とさえいえた。例えば「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん」といった具合である。

芸のあり方、いわば"芸道"とはそういうものなのだろう。ただし、本物の芸人が世に認められるかというと、必ずしもそうではない。いつの時代でも、本物の芸人が世に認められるまでには、それなりの歳月が必要で、それまでに酒や博打に身を持ち崩してしまうこともままある。この物語でも、2人の道は異なっていく。徳永は少しずつ売れていくが、神谷にはなかなか陽が差さない。

私小説的な要素も強い作品だが、発刊直前のインタビューで著者は、神谷の人物像について「いろんな先輩を見てきたんで、仲いい先輩とか。神谷でいうと仲いい先輩が何人かいる、その影みたいなものは、それぞれ入ってて……」と語る。そして、いうまでもなく、徳永は自分自身の投影ではあるものの「ちょっと僕とは違う目線を持っている」と話している。

神谷との触れ合いから、徳永が掴んだものは「自分らしく生きる」ということにほかならなかった。小説の最終部分に「居酒屋の便所に貼ってあるような単純な言葉の、血の通った激情の実践編だった。僕は、そろそろ神谷さんから離れて自分の人生を歩まなければならない」とある。そして、最後のシーンもまた花火だ。見物後、宿に落ち着き、風呂に入った神谷が「おい、とんでもない漫才おもいついたぞ」と叫ぶ。最初の出会いから10年、神谷の漫才への火花は消えていなかったのである。

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