※本稿は、ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター『反逆の神話〔新版〕』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の一部を再編集したものです。
誰がカート・コバーンを殺したのか
1994年4月8日の早朝、シアトルのすぐ北、ワシントン湖を見わたす高級住宅に、新しい防犯システムを設置しにやってきた電気工が、遺体を発見した。この家の持ち主のカート・コバーンは、血の海となった温室の床に倒れていた。致死量のヘロインを摂取していたが、さらに始末をつけようと意を決して、12口径のレミントン散弾銃で左側頭部を撃ち抜いたのだった。
コバーンの自殺が報じられたとき、ほとんど誰も驚きはしなかった。なにしろ「アイ・ヘイト・マイセルフ・アンド・ウォント・トゥ・ダイ(自分が嫌いだ、死にたい)」という曲を残した人物なのだから。1990年代のおそらく最も重要なバンド、ニルヴァーナのリーダーとして、コバーンの一挙一動はメディアに追われていた。以前起こした自殺未遂は大きく報じられた。
遺体のそばに置かれていたメモにはたいした解釈の余地はなかった。「だんだんに消えていくより燃え尽きるほうがいい」。それにもかかわらず、彼の死は少数ながら陰謀説を生み出した。誰がカート・コバーンを殺したのか?
カウンターカルチャーなのに人気になってしまった
ある意味では答えは明白だ。カート・コバーンを殺したのはカート・コバーンだ。だが犯人であると同時に被害者でもあった。誤った考えの──カウンターカルチャーの思想の犠牲者だった。自分はパンクロッカーだと、「オルタナティブ」音楽の担い手だと思っていながらも、彼のアルバムはミリオンセラーとなった。主にコバーンのおかげで、かつては「ハードコア」と呼ばれていた音楽が「グランジ」と看板をかけ替えて大衆に売られた。
しかし、この人気はコバーンにとって自慢の種になるどころか、つねに困惑のもとだった。自分はオルタナティブを裏切って「メインストリーム」になったのか、との疑いが脳裏につきまとった。
アルバム『ネヴァーマインド』でブレイクし、マイケル・ジャクソンを上回る売上げを記録しだすと、ニルヴァーナはわざとファンを減らそうと努めた。次のアルバム『イン・ユーテロ』は明らかに難解だった。だが努力は実らなかった。このアルバムはひきつづきビルボードのチャートの第1位を獲得した。