未来を予測することはできるのか
だがこの間に、ビール事業がサントリーの負の資産であり続けたかというと、そうとはいい切れないところがある。ビール事業で得た、装置産業のノウハウや商品開発力は、後に参入した清涼飲料事業に活かされていく。現在のサントリーでは、この清涼飲料を中心とした飲料・食品事業の売り上げが、酒類関連事業を上回るようになっている。ビールでの収益だけをビール事業の目的とするのではなく、プロセスにおける創発と向き合い、柔軟に目的を切り替えていく。やってみないことにはわからないとは、こういう展開も指すのだろう。
「やってみなはれ」の精神は、その後のサントリーにも受け継がれていく。健康食品の「セサミン」、緑茶飲料の「伊右衛門」、特保食品の「黒烏龍茶」、ウイスキーの「角ハイボール」と、新たなマーケティング・モデルによる市場の開拓は今に続く。
「『……やってみなはれ』(略)の精神は、今の私の気分をよく表している」
93年に刊行された『マーケティングの神話』の「あとがき」で、石井淳蔵氏はこのように述べている。石井氏がそこで、現代哲学・思想の成果を踏まえて解き明かしているのは、いわゆる科学的マーケティングの限界。世界的にも先駆的だったこの論考は、わが国のマーケティング研究を揺さぶり、その後の新たな研究潮流を生んだ。
科学的マーケティングは、未来は予測可能との前提をおく。だがこの前提は、石井氏が説いたように、開発現場がたどるプロセスとは相容れないところがある。特に新製品・サービスが、存在しなかった市場を開く画期的なものである場合に、このギャップは顕著になる。
市場の未来は、プレーヤー間の相互作用を通じて創発する。サントリーの歴史を振りかえれば、国産ウイスキー、あるいはビールの個性を求めるニーズは、あらかじめ存在していたわけではない。しかし、それにもかかわらず行動を起こすことが、市場のないところに市場を生み、新たな目的を事業に呼び込んだ。すなわち、われわれの眼前に広がる市場とは、事象が生起する確率の分布が事前にはわからないことに加えて、とらえた分布が未来に向けて不変であることを仮定してよいかどうかもわからない場なのである。
では、企業はどうすればよいのか。未来は予測できないかもしれないが、つくることはできる。ならば、市場を開くには、「正確な予測にのっとった計画を策定してから、行動する」のではなく、「まずは行動を起こすことで、新たな予測のベースを生み出しながら、計画については試行錯誤のなかで磨き上げていく」のが合理的である。「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」という言葉は、この市場を開こうとする者にとっての真実をとらえている。
企業が未来に向けて市場を開くには、ビジョンというもののあり方や役割と真摯に向き合う必要がある。IBM、ネスレ、コマツ、エーザイなど、未来への意思を持つ企業にはビジョンがある。サントリーもまた、新浪氏をトップに迎えることで新たな歴史へと歩み出すと同時に、受け継いできた市場の真実を、未来へのビジョンとして引き継ごうとしているように見える。