昼は裏口から売り込みに、夜は表から飲みに行く

蒸溜所の建設から6年、待望の「サントリーウイスキー白札」は29年に発売された。だが「白札」は、思うようには売れなかった。販売不振のなかで事業資金は底をつき、31年にはウイスキーの原酒の仕込みができなくなった。サントリーの歴史における最大の危機のひとつといわれる。

「赤玉ポートワイン」に集中していれば、経営は安泰だったわけで、常識は正しかったといえる。しかし、やらなければ小さな会社に終わってしまう。この不作為を戒めるのが「やってみなはれ」であり、この時期の信治郎氏を見ると、彼の行動原理がよくわかる。

信治郎氏は危機のなかでも――いや危機のなかだからこそ――行動を絶やすことがなかった。この時期に同氏は、次々とウイスキーに通じた専門家を訪ね歩き、問題点を洗い出しては、改善に挑んでいる。営業マンたちも、昼間はカフェーの裏口からウイスキーの売り込みに行き、夜は表から飲みに行くというマッチポンプを繰り返した。信治郎氏自身もポケット瓶をいつも持ち歩き、宴会の席などでは客に注いで回り、意見を聞いたり、推奨したりすることを欠かさなかった。さらに信治郎氏は、このウイスキー事業に前後する時期に、練り歯磨き、調味料、ビール、リンゴ酒など、より短期で収益の出る事業に手を広げていく。そして、赤玉ポートワインに加えて、これらの事業からの利益、あるいは売却益を得ることで、ウイスキーが売れない苦しい時期をしのいだ。

試行錯誤を経て、ようやく日本人の嗜好に合うウイスキーを送り出すことができたのは、37年である。この年に発売された「サントリーウイスキー角瓶」は人気を博し、原酒が不足する事態となる。その背景には、国際情勢の変化もあった。戦時体制へと世界が突き進むなかで、輸入が細り、国内では本格的なウイスキーはサントリーしか飲むものがなくなっていたのである。ともあれ、行動を続けることによって、予測がつかない未来をたぐり寄せることもまた、経営の役割であろう。この成功が、サントリーウイスキーの戦後のさらなる躍進につながる。

ワインやウイスキーは、今でこそ日本人の生活に浸透している。しかしこれらは、古来日本人に親しまれてきた酒ではない。以上で見てきたように、サントリーの初期の事業は、まだ存在していない需要を信じ、大衆のなかにそれを実現していこうとする挑戦だった。

ビール事業についても同じことがいえる。60年頃の日本では、ビール市場はキリン、アサヒ、サッポロの寡占状態であり、どれも似た味だった。ヨーロッパのような、ビールの味の個性を選択する豊かさを日本にもたらす。サントリーのビール事業は、この存在していなかった市場の実現に繰り返し挑んできた。

63年に、当時の社長の佐治敬三氏が新たに市場に送り出した「サントリービール」は、それまでの日本の主流のビールとは異なるデンマークタイプだった。その後も67年には、ミクロフィルター技術で新鮮な生のうまさを保った「純生」を、86年には、麦芽100%ビールの「モルツ」を、そして94年には、発泡酒の「ホップス」を発売するなど、サントリーは日本のビールの新しい局面を開く商品を投入してきた。

とはいえ、事業は赤字続きだった。第三のビールの投入、そしてプレミアムビールへの注力により、サントリーのビール事業が初の黒字化を果たしたのは2008年のことである。