「本当に人類にとって大切なのは、高効率で低燃費な内燃機関です。内燃機車両のニーズは、新興国で大きくなるから。なのに、HVやEVなど電気を使う車のほうが、世界で大きな優遇を受けている。おかしいと思う」
人見が開発を志した原点にはやはり反骨精神があった。ロータリー以来のマツダDNAでもある。
開発が始まると、人見は自分にもメンバーにも「できない」という言葉を禁じ、ノッキングが発生する要素を一つずつ潰していった。
06年には「モノ造り革新」に組み込まれ、07年には単なる先行開発ではなく具体的な製品開発プロジェクトに昇格する。基礎開発のエンジニアに加え、商品開発技術者も合流。メンバー数は膨らむが、「全員野球を徹底させました。代打でも代走でも、みんなを試合に出場させ、ベンチウオーマーをつくらなかった。特定の選手ばかりを使って補欠が多いと、連帯感も緊張感も失われていくから。一人でもモチベーションが落ちると、チーム力は弱体化します」と人見は言う。
そして人見たちは圧縮比を14.0にまで高めることに成功する。ピストンの頭頂部にくぼみを設け、燃焼しやすい環境を整える新技術を開発したことなどが、ブレークスルーにつながった。
生産技術も動き出していた。「圧縮比14を実現させるため、燃焼室を成型する新しい鋳造方法を開発したのです。冷やし方がポイントでした」と、生産技術出身の小飼は話す。
このように、開発から生産技術へと横への連携ができた、別の表現を使えば一体となれた瞬間だった。従来ならば、生産現場は「できない」、あるいは「公差(出来上がった製品に許される寸法の差)を広げてくれ」と、泣きが入っていた。ところが、「開発なくして生産なし、販売なし、会社もなし」と社内で謳われるほど一体となっていく。
設計の前段階から、「こんな工法がある」「こうしたほうが安い」と、生産技術が開発部隊に提案できていたのである。
「一つの車種開発が終わると、ノウハウを次の車種開発に渡すバトンタッチ式ではなく、今回は開発と生産が最初から一つになって握り合う形ができました。もし、この横のつながりがなければ、ほかにもあった単発の技術の一つとしてスカイアクティブは消えていたでしょう。そして連携の原型は、バブル期の5チャンネル時代にすでにあった」と小飼は話す。