同じくらいの豊かさやステータスでも、幸せの感じ方は人によって大きく違う。幸福を感じやすい人とそうでない人の違いとは何だろう。心理学的に分析しつつ、少しでもそこに近づく道を探ってみた。
あふれ出る情報が新たな欲求を生む
ここまで幸福の感じやすさというテーマを考察してきた。ここからは、その成果を活かし、冒頭に述べた「ブータンの人と比べて日本人が幸福をあまり感じていない」というテーマにアプローチをしてみよう。
考察を踏まえていえば、ブータンと比較して日本の国民が幸福を感じにくい理由は、おそらく2つである。1つは「欲求が満たされにくい」ことであり、もう1つは「負の感情に陥りやすい」ことである。
最初に「欲求が満たされにくい」という点から考えてみると、考察をもとにすれば、ブータンの人よりも日本の人たちのほうが「欲がある」ことが、その理由ということになるだろう。より仔細にいえば、「欲求の水準が高い」「欲求の数が多い」「欲求が硬直している」ということだ。
しかし、このことは別に日本人が生来的に欲深いことを意味しているわけではない。以下に示すように、日本人のほうが、資本主義という、より「豊かな」世界に住んでいること。ただそれだけのことなのである。
人間が生来的に持っている欲求は、そもそもそれほど多いものではない。生理的欲求・安全欲求が満たされれば、後は小さなコミュニティの中でささやかに承認欲求などが満たされると、それなりに満足できる生き物なのである。
だが、欲求は生来的なものだけではない。そのものにふれることによってはじめて喚起される、後発的な欲求というものもある。たとえば、ほんの数年前まで、私たちはスマートフォンを欲しいとは思わなかった。この世に存在しなかったからである。そのものがこの世にあり、その存在を知り、それが手に入るとわかったとき、スマホを欲しいという欲求ははじめて自覚されたのである。
日本に限らず、資本主義と情報化がある程度進んだ社会、つまり「豊かな社会」においては、この後発的な欲求が、人々の内面で爆発的に増殖していく。欲求の対象はさまざまであるが、時々刻々とメディアからあふれ出る情報は、日々私たちの心の中に新たな欲求を育てていくのである。
こうした「豊かさ」を生きる私たちが、資本主義の揺籃期にさえ至っていないブータンの人たちより「欲がある」のは、避けがたいことである。そして皮肉なことに、まさにその「豊かさ」のために、常に欲求が満たされにくい状態になっているのである。
また、資本主義が持つ性格は、もう1つの問題である「負の感情」とも密接につながっている。資本主義とは、より多くの富を生み出すシステムでもあるが、同時に富の偏在を前提とするゲームでもあり、格差を生み出すことをその本質とする。したがって、社会のどこかに怒りや嫉妬を抱えることは、逃れがたい宿命なのである。