同じくらいの豊かさやステータスでも、幸せの感じ方は人によって大きく違う。幸福を感じやすい人とそうでない人の違いとは何だろう。心理学的に分析しつつ、少しでもそこに近づく道を探ってみた。

ブータンにあって日本にない「方程式」

最近、幸福論といえばブータンということになっている。イケメンのワンチュク国王夫妻の来日もあって、世界でいちばん幸福な国である(らしい)ブータンに学び、その国が採用しているGNH(国民総幸福量)なる考え方を、ぜひわが国でも導入しましょう、といった話で盛り上がっているようだ。

こうした話自体は、べつに悪いことではない。巨大震災の深刻な後遺症の中で、行くべき道を見失ったこの国には、確かに何か新しい指針が必要だからである。ただ、よくわからないのは、こうした議論のほとんどは「政策論」になっていて、本来的なテーマであるはずの「個人の心の問題としての幸福」にほとんど関心が示されていないことである。

もともとGNHは政策形成の手段なので、最終的に政策に議論がいくのは当然である。しかし、政策によって物理的に何かを変えれば人々は幸福になるだろうという考え方は、本質的には、これまでの政治家や官僚たちの発想と何ら変わるところはない。結局、この手の人たちの体のいい道具になって、利権づくりに利用されるのではないか。正直、そんな懸念を抱かざるをえないのである。

ブータンという国に何か範を求めようとするなら、それはどう考えても「個人の心の問題」のほうではないだろうか。

人が幸福であるためには、一定の収入とか、一定の衛生・医療環境とか、一定の教育とか、そういうものがあったほうがいいことぐらい、誰だって知っている。客観的な尺度だけでいえば、どう考えても、日本のほうが「幸福」なはずなのだ。

にもかかわらず、私たちは十分な幸福を感じることができず、ブータンの人たちは、より多くの幸福を感じているという。私たちが見つめるべきは、まさにこのパラドクスであり、そのカギを握っているはずの「心の問題」というテーマに挑まなくて、いったい何の意味があるというのだろうか。

ブータンの人にあって私たちにない心のメカニズム。昔あったかもしれないが、現在に至る道筋のどこかで忘れてしまったかもしれないメカニズム。最終的に何をどう変えていけばいいかも含めて、短い文章であるが、ここで考えてみようと思う。