「達成型」にはなぜ限界があるのか
前段で資本主義や情報化がもたらす必然として「日本人が幸福を感じられない理由」を語ってきたが、それだけで事の本質を語れたかといえば、あまりそんな気はしていない。実際、今や資本主義は旧社会主義国(ロシアなど)の多くも含めた世界のスタンダードであり、それらの国の熱気を思えば、今この国を覆う、何ともいえない「暗さ」を説明するには、ちょっと不十分な感じがするのである。
思うに、今日本で起きているのは、もっと「深い」何かである。ブータンよりも欲求が多いとか、そういう量的なものではない、より本質的な何か、なのだ。
私見では、それは「幸福のかたち」そのものに関わる問題である。資本主義の最先端をいくがゆえに、いち早く直面することになった、近代的な「幸福のかたち」の限界。それこそが、「欲求の満たしにくさ」や「負の感情への陥りやすさ」を生み、日本人の不幸感を高めていると思うのだ。
少し話は難しいかもしれないが、しばし考察にお付き合いいただこう。
現在の日本人にとって幸福とは「なる」ものである。いい会社に入って、お金を稼いで、美人のお嫁さんをもらう。そうした営為の先にあるのが「幸福」なのだ。つまり、あらかじめ設定した「到達水準」があり、それを達成できたときに、私たちは満たされ、幸福に「なる」のである(図4のBを参照)。
こうした「達成型」の幸福のかたちは、それ自体は昔から存在したが、支配的になったのは、おそらく近代以降である。アメリカはその典型であり、若くして仕事に成功し、稼いだ財産で悠々自適なセカンドライフを送るという「幸福イメージ」は、まさに「なる」ものとしての幸福像を示している。
では、それ以前はどうだったのか。推測になってしまうが、自分が幼少期を過ごした日本の村落共同体のあり方などから想像していえば、そこにおける幸福とは、あらためて「なる」ものではなく、すでに「ある」それを感じるという類のものだったのではないかと思われる。
近代化以前の社会とは、一部の富裕層を除けば、常に食べることで精一杯な社会であった。大多数の人にとっては、必要な最低限の食べ物と生活必需品が手に入るという日常(ミニマムの生活水準)が維持できれば、それはもう十分に満足すべきものであった。つまり、幸福とは、何か特別なことをして手に入れる類のものではなく、現に今生きていられるということ、そのこと自体の中に「ある」ものであり、結果的に「満たされていた」ことに気づくような、そういう性質のものだったのである。言い換えれば、幸福とは日常の中に遍在するものであった(図4のA参照)。