※本稿は、濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)の一部を再編集したものです。
秀吉が初めて仕えたという松下氏
天正17年(1589)は秀長の晩年である。同年11月、天下統一目前の秀吉は関東の雄・小田原北条氏に対し「宣戦布告状」を発するが、その中で「秀吉若輩之時、孤と成て」と記している。若い時に孤となった、というのである。幼少時に父を亡くしたことを示しているが、その後も秀吉の前半生は苦難の連続だったと思われる。
中国地方で勢力を誇った戦国大名・毛利氏の外交僧として有名な安国寺恵瓊は、天正12年(1584)1月11日付の書状において、秀吉のことを「若い時は小者であり、乞食もしていたような人」と記述している。恵瓊は幅広い情報を得ることができる立場にあり、情勢分析にも優れていたので、若い頃の秀吉に関する前述の情報も全くのでたらめとは言い難い。
『太閤素生記』によると、実家を出て清洲で木綿針を購入した秀吉は、針売りをしつつ鳴海、そして遠江国浜松までやって来た。浜松の町外れの曳馬(静岡県浜松市)に至った秀吉は、一人の武将の一行と出会う。駿河・今川氏の幕下で久野城主(静岡県袋井市)の「松下加兵衛」の一行である。
今川氏配下の城主・松下加兵衛
加兵衛一行は久野から浜松に至る道で猿を見つける。『太閤素生記』が言う猿とは、もちろん秀吉のことである。「猿かと思えば人、人かと思えば猿なり」「異形成る者也」と秀吉を発見した松下加兵衛は感じたようだ。
「異形成る者」に興味を持った加兵衛は、御供の者を遣り、秀吉に尋ねる。「どこの国から来たのだ。何者であるか」と。それに対し秀吉は「尾張国より来ました」と答える。「幼少にもかかわらず、遠路はるばるなぜここまで来たのじゃ」と問われた秀吉は「奉公を望んでここまで来た」と回答。それを聞いた御供は立ち帰り、加兵衛に秀吉の発言を伝えた。すると加兵衛は笑いつつ「私に奉公するか」と問わせたので、秀吉は「もったいないこと」と恐縮したという。
加兵衛は秀吉を連れて、浜松の城守で今川氏の臣・飯尾豊前のもとに向かった。加兵衛は飯尾豊前に「道中にて異形の者を見つけました。猿かと思えば人、人かと思えば猿のような者。御覧あれ」と言うと、秀吉を召し出す。豊前の子どもや豊前の傍らにいた者らは秀吉を見た。傍らにいた者は、秀吉を見て笑ったという。秀吉は栗を取り出し、その皮を口で剥き、栗を喰らう。その様は猿と似たものだったと言われる。
