戦前にはたくさんの宮家があった

昭和天皇は7人の子をもうけたが、その婚姻相手は旧皇族が1人、公家(五摂家・鷹司家)が1人、大名家が3人で、明仁天皇(以下、平成の天皇と呼ぶ)の皇后のみ、旧皇族・華族以外からとなっている。平成の天皇のお子さんはいずれも旧皇族・華族以外と婚姻しており、時代の変化がうかがえる。

昭和天皇の皇后(香淳こうじゅん皇太后/良子)は旧皇族・久邇宮家出身である。

皇太子時代の昭和天皇と良子妃の成婚記念写真、1924年3月
皇太子時代の昭和天皇と良子妃の成婚記念写真、1924年3月(写真=毎日グラフ「崩御 昭和天皇」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

では、そもそも「旧皇族」とはなにか。簡単に言えば、徳川御三家のようなもので、古くに天皇家から分かれ、皇族待遇を保持していた家系である。明治天皇に兄弟がなく、維新の元勲たちが皇統の断絶を危惧して、かれらを皇族として手厚く遇した。

しかし、日本占領下の1947年の皇室典範改正によって皇籍を離脱させられた。その方々を旧皇族と呼んでいるのだ。

江戸時代末期には、有栖川宮ありすがわのみや、伏見宮ふしみのみや、桂宮かつらのみや、閑院宮かんいんのみやの四家(四親王ししんのうけ家)があった。江戸時代には四親王家の後継ぎがなければ、天皇家から養子を迎えていたのだが、明治以降は養子が禁止とされ、伏見宮家以外は途絶えてしまった。

いまや伏見宮家だけが続いている「四親王家」

閑院宮家は113代・東山ひがしやま天皇(1675~1710)の子を家祖として、2代典仁のりひと親王の子が119代・光格こうかく天皇として即位し、現在の天皇家に繋がっているのだが、嗣子がなく途絶えた。

有栖川宮家は107代・後陽成ごようぜい天皇(1571~1617)の子を家祖とし、初代は高松宮を名乗っていた。14代将軍・徳川家茂の正室、和宮が有栖川宮熾仁たるひと親王の許嫁いいなづけだったことは有名だ。では、許嫁を失った熾仁親王は誰と結婚したかといえば、徳川慶喜の異母妹だ。慶喜の母も有栖川宮家出身で、熾仁親王の大叔母にあたる。有栖川宮家も大正時代に嗣子がなく途絶えた。次女が徳川慶喜の嫡男・慶久と結婚、その娘が昭和天皇の弟・宣仁親王と結婚して有栖川宮家の祭祀を引き継ぎ、高松宮を名乗った。

桂宮は107代・後陽成天皇の弟を家祖とし、明治時代に嗣子がなく途絶えた。伏見宮家は北朝3代・崇光天皇(1334~1398)の子を家祖とし、四親王家で唯一現在まで血脈を保持している家系である。のみならず、伏見宮家は子だくさんで、かえって皇族が増えた。江戸時代、天皇家を含む皇族で次男以下は僧籍に入ったのだが、その風習が途絶えたため、宮家が増設されたのだ。旧皇族といえば、何かとお騒がせの竹田恒泰氏も、この伏見宮家の末裔にあたる。

1947年以前、京都御所に集まった旧皇族
1947年以前、京都御所に集まった旧皇族(写真=直球感想文 和館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)