戦前にはたくさんの宮家があった
昭和天皇は7人の子をもうけたが、その婚姻相手は旧皇族が1人、公家(五摂家・鷹司家)が1人、大名家が3人で、明仁天皇(以下、平成の天皇と呼ぶ)の皇后のみ、旧皇族・華族以外からとなっている。平成の天皇のお子さんはいずれも旧皇族・華族以外と婚姻しており、時代の変化がうかがえる。
昭和天皇の皇后(香淳皇太后/良子)は旧皇族・久邇宮家出身である。
では、そもそも「旧皇族」とはなにか。簡単に言えば、徳川御三家のようなもので、古くに天皇家から分かれ、皇族待遇を保持していた家系である。明治天皇に兄弟がなく、維新の元勲たちが皇統の断絶を危惧して、
しかし、日本占領下の1947年の皇室典範改正によって皇籍を離
江戸時代末期には、有栖川宮、伏見宮、桂宮、閑院宮の四家(四親王家)があった。江戸時代には四親王家の後継ぎがなければ、天皇家から養子を迎えていたのだが、明治以降は養子が禁止とされ、伏見宮家以外は途絶えてしまった。
いまや伏見宮家だけが続いている「四親王家」
閑院宮家は113代・東山天皇(1675~1710)の子を家祖として、2代典仁親王の子が119代・光格天皇として即位し、現在の天皇家に繋がっているのだが、嗣子がなく途絶えた。
有栖川宮家は107代・後陽成天皇(1571~1617)の子を家祖とし、初代は高松宮を名乗っていた。14代将軍・徳川家茂の正室、和宮が有栖川宮熾仁親王の許嫁だったことは有名だ。では、許嫁を失った熾仁親王は誰と結婚したかといえば、徳川慶喜の異母妹だ。慶喜の母も有栖川宮家出身で、熾仁親王の大叔母にあたる。有栖川宮家も大正時代に嗣子がなく途絶えた。次女が徳川慶喜の嫡男・慶久と結婚、その娘が昭和天皇の弟・宣仁親王と結婚して有栖川宮家の祭祀を引き継ぎ、高松宮を名乗った。
桂宮は107代・後陽成天皇の弟を家祖とし、明治時代に嗣子がなく途絶えた。伏見宮家は北朝3代・崇光天皇(1334~1398)の子を家祖とし、四親王家で唯一現在まで血脈を保持している家系である。のみならず、伏見宮家は子だくさんで、かえって皇族が増えた。江戸時代、天皇家を含む皇族で次男以下は僧籍に入ったのだが、その風習が途絶えたため、宮家が増設されたのだ。旧皇族といえば、何かとお騒がせの竹田恒泰氏も、この伏見宮家の末裔にあたる。


