作法を少し改められた

なお、皇后陛下についても誤解がないように付言しておく。

平成時代には、御料車から降りられる場面で、上皇后陛下は同じお車から先に降りられて、この度の敬宮殿下のように頭を下げて、上皇陛下をお待ちになった。ところが令和になって、天皇皇后両陛下はそうした形を少し改めておられる。

これは、両陛下のなさりようが、広く国民にも影響を及ぼしがちなので、旧時代式の男尊女卑的な連想を招きかねない作法は、価値観の変化も考えて改められたのではないか。

昭和天皇のご無念

沖縄では、先の大戦で唯一住民をも巻き込んだ激しい地上戦があり、約11万人の将兵と10万人を超える県民が戦死している。さらに昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条約が発効し、本土で主権を回復した後も、長くアメリカ軍による軍政が続いた。

昭和天皇は、被占領下の昭和21年(1946年)から本土ではすでに主権が回復した同29年(1954年)にかけて、戦争に傷つき疲れた国民を慰め励まそうと、幾多の困難を乗り越えて全国を巡幸じゅんこうされた。その総行程はじつに約3万3000キロ、お出ましの場所が1411カ所にも及んだ。

にもかかわらず、米軍統治下の沖縄だけは訪れることがかなわなかった。

このことが昭和天皇にとって、どれだけ心残りだったか。

しかし、昭和47年(1972年)に沖縄県が本土に復帰してから後も、戦争による犠牲が深刻であったことなどから、天皇、皇室に対する県民感情には複雑なものがあった。

昭和天皇のご訪問がやっと実現しそうになったのは、昭和62年(1987年)に沖縄県で国民体育大会(今は国民スポーツ大会)が開催され、それへの行幸が決まった時だった。ところが、昭和天皇はお出ましの1カ月前にご発病になり、行幸は中止を余儀なくされた。

この時に昭和天皇が詠まれた御製がある。

思はざる
病となりぬ
沖縄を
たづねて果たさむ
つとめ(務め)ありしを

ご無念なお気持ちが伝わる。結局、昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日、沖縄行きを果たされないまま崩御された。

強烈な反対運動

かつての沖縄県では反天皇・反皇室的な感情が根強く残っていた。そのことは、上皇陛下が皇太子時代の昭和50年(1975年)に初めて現地を訪れられた時の事件からも、たやすく想像できる。

本土復帰から3年後のこの年、沖縄国際海洋博覧会が開催されることになり、7月17日から19日にかけて、当時は皇太子同妃だった上皇上皇后両陛下がお出ましになった。その頃は、昭和天皇の戦争責任を糾弾する風潮がまだ強く、左翼過激派などによる強烈な反対運動があった。

しかし上皇陛下は慰霊のために、激しい戦闘があった糸満市など南部方面へのご訪問を、自ら希望された。これに対して、沖縄学の権威で法政大学教授だった外間守善氏は「(南部に入ると)何が起こるか分かりませんから、ぜひご用心下さい」と伝えたという。それに上皇陛下は「何があっても受けます」とおっしゃられた。