敗戦後、捕虜となった日本人がシベリアなどへ送られ、過酷な労働を強いられた。約5.5万人もの命を奪ったのは何だったのか。共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第4回/全4回)
1946年、第二次世界大戦後に抑留されていたシベリアから帰還した日本兵が、京都府舞鶴で船から下船を待っている場面(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
スターリンが発した「極秘指令」
「捕虜をシベリアで労働させようというのはスターリンのアイデアなんだ。関東軍の降伏前から、彼の頭の中には戦争で疲弊した国民経済復興に捕虜の労働力を使おうという考えがあった。問題は関東軍がいつ降伏するかだけだった」
極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの副官だったイワン・コワレンコが言う。
ソ連では1930年代に囚人労働を国家建設に使う強制収容所が全土に広がった。41年からの独ソ戦が優勢になるにつれ、ドイツ人捕虜用の収容所建設が本格化した。45年5月のドイツ降伏時にはドイツ人捕虜だけで約350万人が各地で使役されていた。
対日参戦2週間後の8月23日。スターリンは日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
一、極東、シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選抜すること。
二、捕虜をソ連邦に移送する前に、1000人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、とくに日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍事捕虜を指揮官に命ずること。
二、捕虜をソ連邦に移送する前に、1000人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、とくに日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍事捕虜を指揮官に命ずること。
捕虜がどこで働くかも計画されていた
極秘指令は詳細を極めた。シベリアを中心に数十カ所の建設現場・工場などへの捕虜割り当てを1000人単位で定め、収容所への燃料や衣服の供給量まで具体的に指示した。これは、日本軍の使役が対日参戦前から計画されていたことを裏付けている。
日本人捕虜向け「日本新聞」の準備も対日参戦前に始まった。8月初め、コワレンコの編集長就任が決定した。9月15日には第一号が発行され、捕虜の思想教育まで事前に準備されていたことが分かる。
だが、一方で「シベリア抑留は対日参戦前に決まっていた」というコワレンコ証言とは、一見矛盾した内容の文書も見つかっている。8月16日付でモスクワからワシレフスキーに打たれた電報だ。
日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土内に移送しない。軍事捕虜収容所はできる限り日本軍の武装解除地に設ける。捕虜収容に関する問題処理と指導のためソ連邦内務人民委員会軍事捕虜担当総局長クリベンコ同志が出張する。
