第二次世界大戦中、日本軍が進軍したガダルカナル島では、十分な武器・食料が補給されず多くの兵士が悲惨な死を遂げた。追い詰められた軍中枢部はどうしたのか。共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第2回/全4回)

「人間の肉体の限界まできたらしい」

「12月27日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界にまできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」(元陸軍中尉小尾靖夫の手記『人間の限界 陣中日誌』)

東西150キロ、南北48キロの島ガダルカナル。密林に潜む日本兵たちの間に不思議な生命判断がはやりだしたのは1942年末のことだ。小尾靖夫は「限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった」と記している。

「立つことのできる人間は……寿命三十日間。身体を起して坐れる人間は……三週間。寝たきり起きられない人間は……一週間。寝たまま小便をする者は……三日間。もの言わなくなった者は……二日間。またたきしなくなった者は……明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終るのであろうか」

2万人が「飢餓の島」に取り残された

太平洋戦争の開戦後、日本の勢力圏は東南アジアから南太平洋まで急速に膨らんだ。だが42年夏、反攻に出た米軍はガダルカナルを奇襲。海軍が建設したばかりの飛行場を奪った。

1942年8月7日、攻撃兵員輸送艦バーネットと攻撃貨物輸送艦フォーマルホートからガダルカナル島に上陸したアメリカ第1海兵師団
1942年8月7日、攻撃兵員輸送艦バーネットと攻撃貨物輸送艦フォーマルホートからガダルカナル島に上陸したアメリカ第1海兵師団(写真=U.S. Marine Corps/PD US Marines/Wikimedia Commons

8月から10月にかけ、陸軍部隊が相次ぎ奪回のため上陸したが、攻撃に失敗した。米軍包囲の中、約2万人(11月末時点)の日本兵が取り残された。

補給が途絶え、骨と皮にやせ細った兵隊をマラリアや赤痢が侵した。元陸軍中尉の大友浄洲(81)が言う。

「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね。今もその光景が忘れられない」