母親にも呆れられていた

たぶんぼくは、ふつうの人に比べて、危機を察知する能力や、先を考える力が著しく乏しいんですよ。その原因だと感じるのが、中学2年の頃の交通事故。友だちと自転車レースをしていて国道に飛び出してクルマにひかれたんです。意識を失って、1週間くらい記憶喪失になってしまいました。自分の名前も住所もわからない。

1カ月後に退院できましたが、それからいまにいたる30年近くずっと頭のなかに霧がかかったようにボーッとして、意欲が湧かない状態が続いています(笑)。

家族にとって、いまのぼくの生き方は、すべて交通事故の影響ということになっています。

実家にいる頃は、いつも昼過ぎに起きていたんですよ。その日も昼過ぎに起きて、2階の部屋の窓を開けてタバコを吸っていると母親が隣のおばさんと話していました。

「あんたの息子、何してんの?」というおばさんに対して、母親は「ほら、うちの息子は中2で事故に遭ってるから、もう……」って言ってしました。「もう……」ですからね。話している2人を眺めながら「おかんも大変やな」と感じました。そんなふうに42歳までほとんど働かずに実家暮らしを続けました。

ウマを信仰するインドネシアの民族の「馬骨」
撮影=株式会社インタニヤ
ウマを信仰するインドネシアの民族の「馬骨」 田中俊行『呪物蒐集録』(竹書房)より

「捨てる書類にホッチキス留め」で日銭を稼ぐ

神戸時代の仕事ですか?

たまにデザインの仕事なんかをしていました。アルバイトというよりも、無理矢理お願いして仕事をもらっていました。

神戸にぼくをかわいがってくれた保険会社の偉い人がいたんですよ。その人に「仕事がないんですよ」と言ったら、「ほんなら仕事をつくったる」と仕事をくれました。

その仕事は、まったく必要のない書類をホッチキスで延々と留め続ける作業でした。綴じたあとは捨てるんですが、それで日給1万円くらいもらいました。高校卒業してから、20年くらいは月6万円くらいで生活していたかもしれません。

本当に人に生かされてきたんです。それは上京後も変わりません。

丑の刻参りに使われた「貴船人形」
撮影=株式会社インタニヤ
丑の刻参りに使われた「貴船人形」 田中俊行『呪物蒐集録』(竹書房)より