全盛期には7千人以上の遊女が働いていた
さて、いよいよ新吉原に到着する。ただ、遊廓の周りはぐるりとお歯黒溝と称する堀がとりまいていて、とても飛び越えることができない幅(一説には9メートル)がある。しかも出入り口は、大門と呼ぶ一カ所のみであった。
いうまでもなくこれは、遊女の逃亡を防ぐための措置であり、同時に犯罪者の侵入を防止する目的もあった。大門を入ると、すぐ左手に面番所が設置されている。番所内には町奉行所から出張してきた役人たちがおり、客の出入りに目を光らせている。槍や長刀などの武器は持ち込むことはできなかったし、一般の女性も客として原則入ることはできない(花見の時期などは見物が許された。また、許可証があれば特別に入れた)。
大門から真っ直ぐに大きな通り(仲之町)が中央を貫き、左右には引手茶屋がずらりと並んでいる。吉原全体は、江戸町・京町・角町・揚屋町・伏見町などいくつかの区画に分けられ、大通りから一歩横道に入ると、今度は妓楼がずらりとならび、一階の張見世では格子越しに遊女たちが座っている。全盛期(19世紀前半)には、遊女が6、7千人以上おり、遊女以外の労働者たちも5千人以上いたという。
高級遊女になるためには教養もマナーも必須
なお、遊女と一口にいっても多くの階級に分かれていた。最高ランクの太夫、その下に格子、そして散茶、切見世など、しかも時代によって呼び方や階級数は変化する。たとえば最高級の太夫は、享保期は3800人の遊女の中でわずか4人だけだったが、重三郎の時代の明和年間(1764〜1772)になると消滅し、散茶が最高位となる。
ちなみに花魁と呼ばれるのは太夫だけだったが、吉原から消えたこともあり、やがて高級な遊女一般をさす言葉になった。
花魁のような高級遊女を相手にできるのは「上客」と呼ばれる金持ちだけだった。豪商や大名とその重臣が大半だったから、教養があり芸事にも詳しい必要があった。だから遊女も格が高くなると、歌や踊りだけでなく、和歌や俳句、茶道や花道にまで通じていた。また、儒学や絵画、囲碁や将棋にいたるまで豊富な知識を有していた。
花魁は客を不快にさせないよう、体臭には気を遣い、悪臭の源になる生ものや臭い野菜は一切食べず、香料の入った湯船に長時間入り、常に匂い袋を身につけた。顔に汗をかくこともタブーとされ、暑い夏に打掛を重ね着しても、汗をかかない鍛錬をしたといわれる。だからこそ、どんな客も満足させることができたのである。