明暦の大火を機に、浅草へお引越し

江戸はその後もますます発展して人口も爆発的に増加したので、吉原遊廓も大繁盛となった。ところが、である。明暦3年(1657)の明暦の大火により、江戸の市街地の大半が焼失し、このとき吉原も焼けてしまったのだ。

たんすを荷台に乗せて迫り来る炎から逃れようとする江戸の人々
明暦の大火の際、たんすを荷台に乗せて迫り来る炎から逃れようとする江戸の人々(画像=Heineken, Ty & Kiyoko
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日本橋界隈は江戸城の大手に近く、水陸の交通の要衝であった。そのため魚河岸、金座・銀座があり、大店おおだなも集中していた。そんな江戸の中心地だったので、幕府はさらなる発展をはかるため、大火を機に市街地の整備に乗り出した。

そうしたなか、売買春を行う一大歓楽街たる遊廓が日本橋地域に位置するのは、風紀を乱す原因になると判断したのだろう。江戸郊外の浅草へ移されることに決まったのである。

当時の浅草一帯は江戸の郊外で田園も多かった。そんな2万坪に及ぶ地域を四角に区切り、田圃を埋め立てて新たに遊廓を造成したのだ。以後、葺屋町の吉原跡を元吉原といい、浅草のほうは新吉原と呼ぶようになった。

1年間で67人の僧侶が「女犯」で捕まった

新吉原は江戸の中心部から外れたが、遊びに行くには徒歩や乗り物(馬や駕籠)以外に、舟を使う場合も多かった。大川(隅田川)沿いの船宿(休憩所のある船の貸し出し業者)に入り、そこで小舟(猪牙舟ちょきぶね)をチャーターして川をさかのぼり、山谷堀さんやぼりから陸へ上がって日本堤を通って新吉原へ向かうのだ。

日本堤で歩いていると知人に会うこともあったが、そこはそれ、互いに知らないフリをしたのだった。なかには本人とバレぬよう変装する者もいたそうだ。とくに僧侶などは、坊主頭だから「俺は医者だ」と身分を偽ったり、カツラをかぶったりして吉原通いに精を出したという。しかしときたま町奉行所の一斉摘発が入り、のんびり妓楼に泊まっていると、逮捕されることもあった。

寛政8年(1796)には67人、天保12年(1841)には58人の僧侶が、吉原で女犯にょぼんの罪で捕まり、江戸の日本橋で晒されている。