月収600万円でも、出費で消えてしまう
とはいえ、床花すべてが花魁本人の懐に入るわけではない。2割は店(妓楼)へ差し出し、もう2割は店のスタッフたちに渡す決まりになっていた。実質的に手にできるのは6割程度。つまり、いまの金額(米に換算)にして30万円ほどが実収入だったわけだ。
しかも花魁は日に一人しか客をとらず、しかも毎回床入りするわけではないので、その月収はおよそ米換算で600万円程度と考えてよい。ものすごい高収入のように思えるが、じつは花魁の手元に金はほとんど残らなかった。というのは、とにかく出費が多いのだ。きらびやかな衣裳、髪飾り、所有する座敷の家具や布団にチリ紙まで、すべて自前だったのである。
さらにお付の新造や禿<といった若い娘の小遣い、客への贈り物代などがかかったのだ。
売られた女性たちが生涯過ごす「苦界」
ただ吉原の遊女は花魁ばかりではない。むしろ下級遊女のほうが圧倒的に多く、客をふったり選んだりすることはせず、わずかな金銭で身をまかせた。一晩で複数の客をとる遊女もいた。花魁も重三郎の時代には、初会で床入りすることも珍しくなかったらしい。
ところで吉原の遊女たちはみな、共通の話し方をした。いわゆる「ありんす」言葉だ。これはお国なまりを隠すためだといわれる。彼女たちの多くは、子供のとき親に売られた地方農民の娘である。
27歳になった正月、年季が明けて晴れて自由の身になれたが、その多くは性病や感染症でそれ以前に亡くなってしまい、そうした病死者は近くの浄閑寺へ葬られた。同寺で弔われた遊女の数は、一説には1万5千、あるいは2万人にのぼると推定されている。一生、廓の中で生きていくのが定めだったのだ。
男にとっては憧れのパラダイスだったかもしれないが、遊女たちにとって新吉原はまさに苦界だったのである。