作詞・松本隆、作曲・細野晴臣
最初の成功例となったのが、イモ欽トリオである。メンバーは、山口良一、西山浩司、長江健次の三人。
前章でもふれたが、山口は「劇団東京ヴォードヴィルショー」の若手俳優、西山は『スター誕生!』の「欽ちゃんコーナー」で見出されたタレント、長江に至っては、素人時代に演芸番組などへの出演経験はあったもののプロとしてはまったくの新人。いずれにしても、笑いだけでなく歌という点でも全員素人だった。
デビュー曲は、1981年8月発売の「ハイスクールララバイ」。男子生徒の純情な片思いを綴った歌詞は、当時松田聖子などの詞を手がけヒットメーカーの名をほしいままにしていた松本隆によるもの。むろん設定は、『欽ドン!』のコントで3人が学生服を着た高校生役だったことをベースにしている。
それだけならよくある甘酸っぱい恋を歌った青春ソングだ。だが斬新だったのは、曲調である。作曲は細野晴臣。松本と細野はかつてはっぴいえんどという伝説的なロックバンドのメンバーだったが、すでにはっぴいえんどは解散し、それぞれの道を歩んでいた。
そしてこのとき細野が組んでいたのがYMOである。高橋幸宏、坂本龍一、そして細野の3人からなるYMOは、当時日本のみならず世界中で旋風を巻き起こしていた。無機的な電子音をベースにしたテクノサウンドは、ポピュラー音楽の常識を打ち破るセンセーショナルなものとして熱狂的に受け入れられた。
YMOとIMO
「ハイスクールララバイ」もテクノポップ。そのこと自体、とても新鮮だった。世界の最先端を行くサウンドでつくられた楽曲を音楽とは無縁なお茶の間の人気者が歌う。
YMOは流行に敏感な若者にはすでに大人気だったが、茶の間でテレビを見ている大人や小さな子どもにとってはまだ耳慣れないものだった。それがいきなり茶の間のテレビから流れてきたのだから、そのギャップがまず視聴者の興味を惹きつけた。
細野の起用については、松本隆の助言もあったようだ。まず歌を出す話はレコード会社を通して松本のところに来た。では作曲は誰に頼むかということになり、松本はしばらくぶりに一緒にやりたいと細野を推薦。そして細野には軽い気持ちでこう言った。「とにかく学園ソングが作りたい、で、サウンドはYMOでいいんじゃないか(笑)」(コイデヒロカズ編『テクノ歌謡マニアクス』57~58頁)。
バラエティ番組らしい遊び心も加わった。まず「イモ欽トリオ」というグループ名。これは歌手デビューにあたって付いたものである。「イモ」をローマ字表記にすると「IMO」、そう「YMO」のパロディになっている。そのあたりは細野晴臣も心得たもので、イントロはYMOの代表曲「ライディーン」を彷彿とさせるメロディになっている。