複雑なほど、“自由を活用できるか”が重要になる
学校が示す規範の低下もまた、戦術の重要性を高めている一因です。仮に規範に手足を拘束されていれば、先生(規範)の指示に導かれるがままに勉強をし、そして受験校を選べばよかったのでしょうが、一部の学校を除き、もはやそうはいきません。
規範から解き放たれ自由になった生徒の前に、複雑怪奇な入試という攻略対象が姿を現せば、否が応でもコスパという名の合理性を構築する必要に迫られるわけです。または、その合理性を与えてくれる誰か(権威)を、自分の判断で見つけなくてはなりません。
こうなると、更なる格差の拡大は免れません。その適切な選択ができるだけの能力や経済力に恵まれた者と、そうではない者との間では、構築される合理性のレベルがまるで違ってくるからです。
無論、こうした現象は入試と受験生の間に限った話ではなく、あらゆる場面において姿を現します。規範にとらわれない自由が与えられるなか、社会や制度(≒入試)が複雑になっていけば、その自由を有効活用できる能力・環境を有しているか否かが、なお一層のこと重要になってしまいます。
ここで思い出されるのが、新自由主義経済とそれがもたらす副作用についてです。新自由主義経済に対する是非は人それぞれだと思いますし、それは本書のテーマ外の話なので評価は脇に置いておきます。
「合理的に努力を重ねた強者」が勝つ
ただ、この経済のあり様が経済格差をもたらすこと、少なくともそのトリガーになりうることについて、然したる異論はないと思います。
様々な規制を緩和し、自由に競争ができる環境を整えた結果、富める者(強者)はより豊かになり、そうではない者はより貧しくなりがちだということは、経済が停滞するこの日本において多くの人々が実感してきたことでもあります。
強者からすれば、自由になることで卓抜した能力を制限なく発揮できるため、彼らが水を得た魚になるのは必然です。複雑な現代社会において合理的な策を練り、そして努力を重ねていった強者たちが、更に多くの富を蓄積するのは当然の帰結です。
封建制度・カースト制・世襲制のような極端な環境下であれば「自由の獲得=格差の是正」という逆の公式が成立しそうですが、現代の日本においては、それが特殊な環境下に限られることは論を俟まちません。
今起きていることは、この一連の流れと類似しています。制度と規範の違いはあれども、双方ともに緩和・撤廃により自由な環境が創出されるという点において同型なのです。「~べき」という規範をなくし、人々が自由と軽さを獲得した先には、強者がより強くなるという顛末が見えてきます。なお、この件については本書の第2章にて改めて記述します。