天守が東に傾いている?

皿屋敷で最も有名なのは、やはり江戸の旗本屋敷を舞台にした番町皿屋敷だと思うが、いったいなぜ、同じような物語がたくさんあるのか、それこそが一番不思議である。

ちなみに、お菊井戸には水がなく、底から水平に抜け道が掘られ、城外の岩窟につながっていると伝えられてきた。抜け穴がばれぬよう、幽霊物語をこしらえて人が近づくのを防いだという話もある。ただ残念ながら調査の結果、抜け穴は発見されなかった。

続いて、天守にまつわる不思議を紹介しよう。

「東かたむく姫路の城は花のお江戸が恋しいか」

これは昔、城下でうたわれた俗謡だ。歌詞の内容は、天下の姫路城の五重天守が、東に傾いてしまっているというもの。果たしてそんな馬鹿なことがあるのだろうか。実は、あるのである。

昭和の大修理のさい、天守の傾斜を調べたところ、なんと東南側に50センチほど傾いていることが判明したのだ。これは、地盤沈下が原因だとされる。天守は姫山東端に位置するが、これを築くさい、敷地が不十分だったので、東南側に盛り土をして広さを確保したのだ。

そのため、盛り土をした地域が沈み始め、天守が東南へ傾いてしまったのである。そこでの天守解体修理のさい、コンクリートを流して補強したので、現在は傾斜していない。

5年間の屋根と壁の改修を経て、2015年5月に完成した姫路城
5年間の屋根と壁の改修を経て、2015年5月に完成した姫路城(写真=Niko Kitsakis/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

源兵衛は本当に生き埋めにされたのか

そんな天守の傾きについて、悲惨な伝承が残っている。

天守の作事責任者である大工の桜井源兵衛は、完成してまもなく妻をともない上へのぼった。というのは、天守が傾いている気がして仕方なかったからだ。そこで天守に妻をのぼらせ「傾いていると思うか」と問うた。妻は正直に「そう思います」と答えた。すると源兵衛は「素人のお前にもわかるか」と落胆し、後日一人で天守にのぼり、口にノミをくわえ飛び降りて死んだと伝えられる。責任を痛感しての自殺だったのだろう。

ただ、この話が史実とは思えない。いくら責任者だからといって、勝手に大工が女房を天守にともなったり、自由に一人で出入りできるはずがない。源兵衛の死が事実なら、むしろ他殺の可能性が高い。

城の内部構造、とくに極秘部分にたずさわった大工や職人が殺されたという逸話は各地に残っている。それに源兵衛が他の大工と生き埋めにされたという伝承もあり、その場所が埋門だといわれている。

ちなみに姫路城清水門の外、中堀と船場川を分ける外郭の土塁上に2メートルあまりの石碑が立つ。碑の表に記されてあった文字は、摩滅して読みとることができないが、伝承では源兵衛の墓石だと伝えられる。

だが、果たして天守の設計に失敗して自殺した職人の墓を建てるだろうか。墓石を建立してから源兵衛の魂はよく城を守護したというが、この石、そもそも墓石の形状をしていない。城下の旧家に残る文書によれば、元禄時代、船場川改修工事の竣工記念に清水門外に石碑を建てたもので、誰かが勝手に源兵衛の墓石だと語るようになったようだ。