姫路城は池田家→本多家に

さて、輝政が50歳で亡くなると、輝政の嫡男(長男)・利隆が家督を相続した。ところがわずか3年後、利隆は若くして亡くなってしまう。嫡男の光政はわずか8歳、幼児に西国の要である播磨は任せられないと判断した幕府は、池田家を鳥取城へ移封してしまった。

領地は播磨から因幡・伯耆2国になったが、石高はあわせて三十二万石、播磨時代から十万石の減封となった。

こうして池田氏は、3代17年で姫路城を去り、代わって譜代の本多忠政が城主となった。忠政は徳川四天王・忠勝の嫡男として生まれ、父の隠居後、その領地を踏襲して桑名城主となった。大坂の役での戦功に加え、嫡男の忠刻が千姫と結婚したので、今回、姫路に栄転となったという。

周知のように千姫は豊臣秀頼の正室で、大坂落城のさい城から救い出された。

千姫を忠刻の妻にと願ったのは、忠政の妻で忠刻の生母・熊姫だった。熊姫も千姫同様、家康の孫(松平信康の娘)だが、婚家の本多家と将軍家の結びつきを深めたいと考え、祖父の家康に懇願したらしい。

忠勝が他界したあと、忠政は弟の忠朝と相続争いになり、結局、忠政が全てを継承したが、このおり、潔い忠朝の態度に感服した家康は「忠朝のほうが忠勝に似ている」とほめた。これに忠政・熊姫夫妻は、危機感を抱いたようだ。

千姫(天樹院)の肖像画(部分)
千姫(天樹院)の肖像画(部分)[写真=弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」/PD-Japan/Wikimedia Commons

流産を繰り返した上、夫は早世

家康は熊姫の願いを聞き入れ、元和2年(1616)9月、夫・秀頼の喪もあけないうちに千姫は忠刻のもとに嫁いだ。本多家には十万石という莫大な千姫の化粧料(持参金)が入り、翌年、忠政は桑名十万石から姫路十五万石へ移封する。

河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)
河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)

いまも姫路城の西の丸に残る化粧櫓は、千姫の居間として、彼女が持参した化粧料で建てられたもの。このとき忠政は、西の丸を高石垣で囲む大改修をおこなっている。化粧櫓の居室は全て畳敷きである。当時としては贅沢であり、壁や襖も極彩色の花鳥が描かれ、絢爛豪華な雰囲気を醸し出していた。また忠政は、三の丸に新たな御殿を創建している。

忠刻と千姫の夫婦仲はよく、千姫は元和4年に勝姫を生み、翌年に再び懐妊し、男児(幸千代)を出産した。ところが元和7年、幸千代は3歳で夭折してしまう。豊臣秀頼の祟りとの噂が立ったので、千姫は元和9年に伊勢慶光院の周清上人に秀頼の供養を依頼。

周清は、千姫が所持する秀頼の直筆(南無阿弥陀仏の名号)を観音像の胎内に納め、男山山麓の祠(現・男山千姫天満宮)に安置した。千姫は化粧櫓の西窓から毎日この祠を遥拝したという。