入社6年目の秋、宅急便の開発プロジェクトチームに呼ばれた。第一次石油危機の後で、日本は不況に突入し、運輸業界もガソリン代の高騰に荷動きの激減が重なって、厳しいときを迎えていた。社長が、宅急便の構想を、社内に示す。10年近く温めていたようで、企業のまとまった荷物の受注に依存する姿から、直営の営業店や代理店で小口の宅配を展開する形へ、ビジネスモデルの大転換。小口は利益率こそ高いが、手間がかかるので、業界はどこも大口志向のまま。大胆な挑戦だった。

チームでは最年少。でも、どんどんアイデアを出す。大学時代のアルバイトの経験が役立った。「配達しながら集荷する」という仕組みが論点となり、配送現場は「できるわけがない」と反対した。でも、「できます。百貨店の配達をやった経験から、最初の時間帯はともかく、荷物がさばけてきたら、集荷も一緒にやれます」と主張する。それを機に、議論の流れが変わる。ここでも、過去の経験に引きずられずに「不凝滞於物」の精神を発揮した。

立案は進み、76年1月、関東一円で「クロネコヤマトの宅急便」が始まる。初日の発送個数は2個。だが、あっという間に需要が湧き起こり、3年目に年間1000万個、8年目に1億個を超え、2011年度は約14億2000万個を扱った。

2005年11月、グループは持ち株会社の下に集まり、その核となるヤマト運輸の会長に就任。翌06年には、持ち株会社の社長となる。社長時代も、週1回は集配拠点を回った。朝6時半から7時に訪れ、荷物を積み込む作業をみて、朝礼にも出る。「安全第一、営業第二」とする伝統を確認、みんなに課題を指摘する。『論語』や『孫子』の言葉を引用して、サービスの心得も説く。現場好きは、昨年4月に持ち株会社の会長になった後も変わらない。

現場は、年間に14億個もの宅急便を扱っているから、届けた先で14億回も「ありがとう」と言ってもらえる可能性を持つ。本当に、幸せな職場だ。だからこそ、「もっと、いいサービスをしよう」という思いにならなければ、いけない。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
【関連記事】
しまむら、ヤマトに学ぶ「高生産人間」のつくり方
これからの「本物リーダー」の話をしよう
なぜヤマトの宛名なしDMが集客効果20倍なのか
「鮎の配達」から学んだ顧客奪取のヒント -女性トップセールス11人の「奥の手」見せます【2】佐川急便
なぜ「レストラン閉店後の利用」にも応じるのか -ザ・リッツ・カールトン東京