原告のひとりは広島で5人の子を亡くし、自分には傷害が残った

弁護士事務所に保管された古い紙の綴りや手書きの訴状には、原爆投下による惨状や原告の受けた被害について、生々しく描写されている。

「原子爆弾投下後の惨状は数字などのよく尽すところではない。人は垂れたる皮膚を襤褸らんるとして、しかばねの間を彷徨、号泣し、焦熱しょうねつ地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻さんびなる様相を呈したのであった」

「原告は本件広島被爆当時47歳であって、広島市中広町に家族とともに居住し、小工業を自営していた健康な男子であったが、当日の被爆のため長女(当時16歳)三男(当時12歳)次女(当時10歳)三女(当時7歳)四女(当時4歳)は爆死し、妻(当時40歳)および四男(当時2歳)は爆風・熱線及び放射線による特殊加害影響力によって障害を受け、原告は現在右手上膊じょうはく部にケロイドを残し、技能障害あり、また右腹部から左背部にわたってもケロイドあり、毎年春暖の節には化膿しまた腎臓及び肝臓障害があって、現在まったく職業につくことはできない」

原爆投下からまだ10年余りの、その言葉に生身のような痛みが残っている頃のことである。裁く立場の嘉子の心象風景は知るよしもないが、戦争による心の傷は嘉子にも癒されぬまま残っている。日々の生活の細々とした苦労は思い出したくなくとも、忘れ去ることはできない。嘉子の夫と弟を奪ったのも戦争であった。肉親を原爆で理不尽に奪われた原告の気持ちは、最もよく嘉子が理解したところだろう。

三淵嘉子、1982年
写真提供=共同通信社
三淵嘉子、1982年

嘉子や裁判長の古関は万全の体制で原爆裁判を受け持った

第1回、第2回口頭弁論の裁判長は畔上あぜがみ英治が、第3回弁論から判決までは古関敏正が務める。左陪席は弁論準備手続を伴うので変遷が激しいが、第8回弁論から判決までは高桑昭が務めた。

裁判長の古関は、嘉子より3期上で判決時、50歳であった。戦後司法省調査課や最高裁民事局の二課長などを務めた。風貌からは穏やかそうな印象だが、原爆投下が国際法違反かどうかが争点になると、躊躇ちゅうちょなく3人の国際法学者を鑑定人に選任した。原告が申請した原水爆禁止日本協議会の理事長で法政大学の安井郁教授、そして被告の国側(日本政府)が申請した京都大学の田畑茂二郎教授(横田喜三郎教授と交代)と東京大学の高野雄一教授である。

著名な国際法の研究者を3人並べたことで、古関は、自身が原告にも国にも、訴えを正面から受け止める覚悟ができていることを示した。3人の鑑定結果は1961年(昭和36年)から翌年にかけて裁判所に提出された。最大の焦点である原爆投下と国際法について、安井と田畑の意見はともに、「非人道的、無差別爆撃であり国際法に違反する」であった。高野も断定を避けつつ、「国際法違反の戦闘行為とみるべき筋が強い」と述べている。