原爆裁判で合議した若手裁判官「三淵さんは優しい人でした」

ちなみに、3人の裁判官の中で1人だけ、終盤に左陪席となった高桑昭さんが、原爆裁判について発言している。前年に裁判官になったばかり、26歳だった高桑さんは当時を振り返り、「(三淵さんは)おうようなやさしい人。私とは親子ほど年齢差がありましたが、古関さんとともに私を合議体の一員として遇してくれた」と語り、3人で合議をし、判決の方向性を決めたと明かしている(2024年4月20日付け「中国新聞」)。ただし判決文の内容を決める話し合いで誰が何をいったかについては、触れていない。

極めて難しいのは、この裁判が持つ政治的な影響力の大きさである。もし判決が原爆投下を国際法違反と結論づけ、国に賠償を命じれば、広島と長崎の他の被爆者たちは、次々に同じような裁判を起こすだろう。被爆者援護の法律の制定を求める声も高まる可能性がある。改めて原爆を投下したアメリカの責任を問う声は高まり、国際問題ともなろう。

「広島、長崎両市に対する無差別爆撃で国際法違反」

様々な問題、難題を抱えながら3人は判決文を書き進めた。ただ嘉子が判決文のどの部分を書いたかは分からない。しかし、第1回口頭弁論から結審まで、一貫して審理を担当した嘉子の意見がかなり反映されたことは、間違いない。

古関は判決後の囲み取材で、「政治的にどんな効果があるかは考えなかった。また裁判官は考えるべきではない」と語る。

「二十数年間の判事生活を通じて、今度が一番苦労した」とも語る。

また、「あなたの裁判の師は誰か」と問われて、尊敬している裁判官として、三淵忠彦(三淵嘉子の夫の父で最高裁判所長官)を挙げた。

判決は1963年(昭和38年)12月7日午前に言い渡された。

注目される原爆投下の国際法上の評価については、

「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃の目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」としたのである。

長崎県香焼島にあった造船所の事務所屋上から原爆炸裂の約15分後に松田弘道が撮影
長崎県香焼島にあった造船所の事務所屋上から原爆炸裂の約15分後に松田弘道が撮影。1945年8月9日(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons