老将と壮年将の対楚戦をめぐる駆け引き

秦王(三六歳)と老将王翦おうせん、壮年将軍李信りしんの対楚戦をめぐる駆け引きが、王翦列伝に詳しく記されている。秦王は二人を呼び、楚を攻めるのに必要な兵数を尋ねた。李信は二〇万で十分といい、王翦は六〇万でなければだめだと答えた。王翦は戦う前から綿密に廟算した数値を出したのであろう。しかし秦王は李信に任せ、王翦は病気を理由に帰郷した。

筆者はこれまで、老獪ろうかいで経験豊富な王翦だから六〇万、李信の若さゆえの過信が二〇万という数字を漠然と挙げたのだと考えていた。しかし六〇万には確固たる根拠があったのだと考えるようになった。

秦と楚は、あい拮抗する軍事力をもち、帯甲(よろいの武装兵)一〇〇万、戦車一〇〇〇乗、騎兵一万匹(馬の数)の大国であった。相違点は、秦の本土は地方二五〇〇里の四塞の地に対して、楚は地方五〇〇〇余里の広大な土地を持つことである。

一〇〇万の軍事力をもつ本土の秦から六〇万も楚に動員することは、これまでには出来ない作戦であった。しかし当時の状況は、三晋とよばれた中原の三国(韓・趙・魏)はすでに滅んでおり、残されたのは燕・斉と楚であった。本土の秦を守る兵士を総動員して、軍事大国楚に向けようとしたのである。

茂みの中の兵馬俑
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『算数書』に記された兵士動員比率

李信のいう二〇万も計算された数字であるが、王翦は楚の一〇〇万に対抗するには無謀と考えたのであろう。

案の定、二〇万の李信軍は楚軍に敗れた。二〇万をさらに李信と蒙恬もうてんの二軍に分割して攻める作戦はうまく機能せず、三日三晩昼夜をおかず果敢に攻めてきた楚軍に敗北した。

岳麓秦簡がくろくしんかんの『算数書』には、兵士の徴発に関する設問があった。

「凡そ三郷に、其の一郷より卒千人、一郷より七百人、一郷より五百人とすれば、今、上は千人に帰し、人数を以てこれを衰せんと欲すれば、問うに幾何より幾何に帰せん」

三つのきょうからの動員の比率を千対七百対五百(一〇対七対五)として上限を千人とした場合、それぞれ何人となるか。

その解答は、四五四人と二二〇〇分の一二〇〇人、三一八人と二二〇〇分の四〇〇人、二二七人と二二〇〇分の六〇〇人となっている。四五四人と三一八人と二二七人を足せば九九九人、分数分は足せば一人となり、合計千人となる。一家族から成年男子を一人か二人徴発する場合、郷ごとに動員数は異なるので、それを考慮した計算である。