プロデューサーは絶対権力者ではなく「調整役」
日本テレビの報告書を読んで、時間のない中で、関係各所と調整してドラマを作り上げることの困難さが改めて明るみに出たように思えた。タイトなスケジュールの中で、経験の少ない若手プロデューサーに重荷を負わせてしまったのもよくなかったとは思うのだが、そもそも「原作者の意向」という変数が、あまり想定できていなかったようにも思える。
ドラマの制作過程において、「原作者が軽視された」と言われてもやむを得ないところが多々あったのは事実である。しかし、原作者が多くを要求してこない(あるいはできない状況にある)他のケースと比べると、どうしても調整に時間がかかるし、スケジュールもさらにタイトになって、制作側が追い込まれ、人間関係のトラブルも生じがちになる。
特に、ドラマ放映後に火種となった、原作者と脚本家の認識のずれが、制作が進むにつれて徐々に拡大し、大きな亀裂となったことが両社の報告書からも伺える。
筆者は広告会社に勤務して、広告制作やイベントの企画・運営に携わったことがあるが、上記のようなトラブルは日常茶飯時である。プロデューサーと聞くと格好よく聞こえるが、仕事の大半は調整とトラブルシューティングだ。
現在に至っても、小学館側と日本テレビ側の事実認識が一致せず、「責任の押し付け合い」と批判されている。だが、このような認識の齟齬は頻繁に起こる。実際に筆者自身も体験してきた。
このギャップをどう埋めていくのかというのが今後の大きな課題となる。
安易な犯人捜しは事実を捻じ曲げる
日本テレビの報告書の「第5 今後へ向けた提言」、小学館の報告書の添付資料「当社刊行作品の映像化に関する、今後の指針について」にこれからの指針が示されている。
本来は、ここをしっかりと検討して、実質的に機能する体制を構築することが重要なのだが、ここについて言及する人は少ない。
SNSユーザーや多くのメディアが求めているのは「原作者はこんなにひどい目に遭った」というストーリーであり、「原作者をひどい目に合わせたのは誰なのか?」という犯人捜しである。
漫画家をはじめとする多くの原作者も、本件に関して「原作改変された」「原作者がないがしろにされた」と解釈したようで、映像化に伴う自身の理不尽な体験を語る人も多かった。
そのため、「セクシー田中さん」についても、「原作改変された」という誤解が蔓延してしまったのだが、それは事実ではなかったことが、報告書からも確認できる。
最終的に権利を勝ち取った芦原さんが犠牲者になってしまった――というのが、この事件の特殊なところであり、誤解を招きやすいところでもある。