都を離れる前から口説かれていた

為時と紫式部が越前に下ったのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。一方、宣孝はその前年の長徳元年までには、筑前(福岡県の大部分)の国守の任期を終え、都に戻っていた。

「光る君へ」では、越前に到着するまで、まひろは宣孝との結婚などまったく考えたこともなかったように描かれている。だが、SNSは当然のこととして電話も郵便制度もなかった当時、越前で暮らしている紫式部と宣孝の縁談が、急にまとまるとは考えられない。

伊井春樹氏は次のように推測するが、妥当なように思われる。「宣孝は筑前守として勤め、長徳元年(九九五)か前年には帰京していたはずで、そのころ紫式部との結婚話が具体的に進められた可能性がある。年が隔たっていることや、紫式部自身も二五、二六の適齢期を過ぎていたこともあり、気は進まず、あいまいな返事のまま、翌年には父為時の越前守赴任を口実に都を離れたのではないかと思う」(『紫式部の実像』朝日選書)。

やはり、紫式部が都にいるときから縁談が進んでいなければ、都から遠く隔たった越前で結婚を決意したりしないだろう。また、貴族の男性が女性に求婚する際は、まず歌を詠みかけ、受けとった女性は、いったんはやんわりと断るのがルールだった。そして、何度か同様のやりとりを繰り返した末に、話がまとまるときはまとまった。

十二単
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宣孝の恋文に対して紫式部が返した歌

では、宣孝は紫式部にどう詠みかけ、彼女はどう返したのだろうか。

まず、年が長徳2年(996)から同3年(997)に替わって、「唐人見に行かむ(越前まで唐人を見に行きたい)」といっていた人、すなわち宣孝が、「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ(春には氷も溶けるように、閉ざしている貴女の心も、いずれ解けて私を受け入れてくれるものだと、どうにかしてお知らせしたいもの)」といってきたのに対し、紫式部はこう返した。

「春なれど白嶺のみゆきいやつもり解くべきほどのいつとなきかな(春になりましたが、白く染まった山に雪はなおも降り積もっていて、いつ溶けるともわかりませんが、私の心もそれと同じです)」

ほかに、紫式部はこんな歌も返している。

「みずうみに友よぶ千鳥ことならば八十の湊に声たえなせそ(近江の湖で友を呼んで鳴いている千鳥さん、いっそのことたくさんの船着き場で鳴くように、多くの女性に声をかけ続けたらどうですか)」

「よもの海に塩焼く海人の心からやくとはかかるなげきをやつむ(あちこちの海で製塩のために海水を焼く海人が、役目として投げ木を焼くように、あなたは多くの女性に心を寄せては、自分から嘆きを重ねているのでしょうか)」