「父殺し」より「母殺し」が難しいワケ

【斎藤】母には、娘の身体を借りて夢を実現してもらうという「生き直しの欲望」があるのです。

【菅野】それは、私も子どもの頃によく感じていました。母は私に第二の人生を「生き直して」ほしいのだろうと。

先ほどもお話に出ましたが、そこには娘側の心理として苦しみの反面、一種の一体感というか心地よさもあるわけですよ。母のケアを担っていた娘の立場からすると、どんなに我が身を犠牲にしても母の望みは、叶えあげたいという思いに取りつかれていましたからね。

【斎藤】父から息子への教育は、基本的には社会一般のルールの“インストール”です。体育会系などのように多少の偏りはあるかもしれませんが、どちらかといえば一般性が高いルールを教え込む過程です。

だからこそ、息子がその価値観の中で父親に勝ることもありうるわけです。偏差値という価値観だったら、父よりも高い偏差値の大学に入れば、もうその瞬間に「父殺し」が達成されてしまいます。

ところが、母が娘に伝達する価値観は一般性に乏しく複雑で曖昧なので、簡単には勝ち負けが論じられません。そういう意味で、母が娘を支配する関係がずっと続くのです。まさに私の本のタイトル通り、『母は娘の人生を支配する』となるわけです。

ただし、支配といっても母にとっては「よかれと思って」のことです。

菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)
菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)

【菅野】「よかれと思って」なので、滅茶苦茶やっかいなんですよね。母の欲望は、気まぐれで終わりがない。母を捨てなければ、私は母の望む人生を死ぬまで生き続けなければならないのかと思うと、ゾッとします。

【斎藤】そこには「女性らしくあってはいけない」という、ある意味ミソジニー(女性嫌悪)的な発想があって、その裏返しでそういうことをしたわけでしょう。ですから、少女時代にスポーツ刈りにさせられたのも、ある意味で身体性の支配です。女性性の否定は女性性の押しつけをひっくり返しただけですから、身体性の支配という点では同じ意味を持っていたのかもしれませんね。