「母をケアすることがアイデンティティ」だった

【斎藤】最近、医学書院からヤングケアラーについて書かれた『わたしが誰かわからない』というすばらしい本が出たのですが、著者の中村佑子さんはそういう分離の解決策を提示してはいないんです。女性はケアする存在だから自我を捨ててまで親をケアするべきだ、とは言っていない。

もちろん、女性が親をケアするのが正しいとは言っていませんが、それは苦しいけれども意味のある体験であって、自分はそれを否定できないという話に近いので、苦しんでいる人の具体的な解決につながるかといったら、やはり難しいと思います。

母を捨てるというのは、それほど難しいんです。

菅野さんの本にも書かれていましたが、母娘には愛憎の両極があります。『わたしが誰かわからない』の場合は、虐待はされていませんが、ヤングケアラーですから“半虐待”のようなかたちで、なかば強制的にケアを強いられる立場になっている。

虐待にもケアの側面があると思いますが、その瞬間がすごくポジティブな輝きを帯びてしまうことがある。これが母を捨てることの難しさに結びついているのかもしれないと思いながら、菅野さんの本を拝読しました。

【菅野】ポジティブな輝き……。本当にそうなんですよね。

著書の中でも書きましたが、私も母から幼少期に凄まじい肉体的な虐待を受けたんです。毛布の上から首を絞められて窒息して気を失ったり、水の張ったバスタブに沈められたこともある。もちろん、それは今思うとおぞましく、そんなことをした母への憎しみも当然あるんです。

ただ、そんな母も祖父母からネグレクトされて育ったことも、早い段階で気づいていました。さらに父との満たされない結婚生活を送っていた姿も見てきた。だからこそ娘である私が、母の望んだ人生を生きなきゃと日々、孤軍奮闘していたわけです。

あの時間を振り返ると、むしろ私は「母をケアすることがアイデンティティ」でした。確かに母をケアする喜びにあふれていたし、光り輝いていた。だから長年、母と離れられませんでした。著書『母を捨てる』では、母を捨てられない娘の視点も徹底的に描いたつもりです。

よく「こんなにひどいことされたのに、なんで今まで捨てなかったの⁉」と言われるんですが、斎藤先生のご著書を拝読して、ストンと腑に落ちました。「そりゃ、捨てられないよね」と。

でも、やっぱり私はその蜜月も、今振り返るとめちゃくちゃ苦しかったんです。母の望んだ人生を操り人形のように生きているわけですから。「母を捨てる」までの38年間は、その葛藤の連続だったと思います。

娘が「母を捨てる」のは自傷行為

【菅野】母は娘の人生を支配する』でも書かれていらっしゃいましたが、「父と息子」と「母と娘」の問題には、どのような違いがあるのでしょうか。

【斎藤】大前提が一つあります。それは、男は「体を持ってない」ということです。

【菅野】「体を持っていない」というのは、どういう意味でしょうか。

【斎藤】女性は、頭痛や低血圧、便秘、生理など、あらゆる場面で自分の身体を意識しながら生きています。それを「モビルスーツみたいだ」と表現した人もいましたが、「身体を着て生きている」という自覚が女性には特に強いんです。一方、男性は健康な限りはそういった意識がほとんどありません。男性は、体が“透明”なんです。

【菅野】“透明”とはどういうことでしょうか。

【斎藤】健康な男性の多くは、自分が身体を持っていることをほとんど意識しないで生活している、という意味です。

一方、後でも触れるように、母は娘を「女として育てる」過程で、その身体を支配しようとします。娘の身体には決まって、母による支配の痕跡が残っています。比喩的に言えば、こういう身体の支配を通じて、母と娘は、身体が細胞レベルで融合してしまうんです。

この点、男性は体を持っていないので、ほぼそういう巻き込みが起こらない。だから父と息子、あるいは母と息子には、細胞レベルの融合が起こらないんです。男性も何%かは身体を巻き込んでいるのは間違いないですが、あえてここでは極論にしています。

ですから、父が憎いと思ったら、敵視して簡単に切り捨てられる。つまり、容易に「父殺し」ができるのです。

【菅野】なるほど。まさに、私と母とは細胞レベルの融合でしたね。それがおかしいとも思っていなかったですし。

【斎藤】男性が「父殺し」をしても、それほど大きな痛みを感じないのは、男性に“体がない”からです。しかし、母と娘は細胞レベルで融合してしまっているので、母を殺そうと思ったら娘は死ぬほど痛みを感じてしまう。娘が母を捨てるということは半分、自傷行為なんです。だから、母を捨てられない、つまり母を“殺せない”んです。この違いが、「母殺し」の難しさになっています。

斎藤環氏。
撮影=大沢尚芳
斎藤環氏。