母親の人生を生き直させられる娘たち
【菅野】それはまさにそうで、私は今、死ぬほど痛みを感じている最中です。母娘はなぜ、細胞レベルで融合してしまうのでしょうか。
【斎藤】それは、ほとんどの母は娘を人間として育てないからです。
【菅野】「人間として育てない」とは、どういうことでしょうか。
【斎藤】母は娘を「女」として育てるんです。現代社会における「女性らしさ」とは、ほぼすべてが身体性に集約されます。女性的な外見、服装はもちろん、たおやかさやしとやかさ、ふくよかさ、そして所作や言葉遣いもそうです。女性らしさを伝達するには、身体レベルで融合しながら娘を支配しないといけません。女性同士だから、そういう同一化は息子に比べても容易なんですね。
養育の過程で、母は自分のありったけの「女性らしさ」のノウハウを娘につぎ込みますが、その中にはよくわからないルールがあったり、自己流のサバイバルスキルがあったりする。娘はそういうものでがんじがらめなってしまうんです。
それは一子相伝で、規範としての一般性は乏しい。「私はこうやって生き延びてきたから、あなたもこうしなさい」という話になってしまう。「私はこれができなかったから、あなたはこれをすべき」のような逆のパターンもあります。
母から娘に伝える価値観は、その家限定のようなものが多く、非常に偏っているケースも少なくありません。それはあくまでも母独自の考えで、父から子に伝える価値観のほうがまだ一般性・普遍性がある。
『母を捨てる』を読んで、菅野さんのお母さんにも特殊な価値観があったように思いました。休みなく猛勉強させたり習い事に通わせたり、作文コンクールや新聞投書などに応募させたのもそうでしょう。女性らしさとは関係がないかもしれませんが、「生き直しを命ずる」という意味では、身体が融合しているといえるかもしれません。
【菅野】「母親の人生を生き直す」ということですね。
絶えず変わり続ける母の娘に対する欲望
【菅野】私も『母を捨てる』では、その母子の離れらなさを描いたつもりです。ただ、読者の反応を見るに、冒頭の肉体的虐待についてよく引き合いにだされることが多いんです。確かに幼少期の肉体的な虐待の表現はセンセーショナルでしょうし、当事者としてはものすごい恐怖で、生物としての危機を感じたのは事実ですが。
だけど、それより私が母に対して最も恐怖したのは、私の身体が大きくなってからも母に支配され続けたことなんです。それは母の娘に対する欲望が、絶えず変化していったから。
母は専業主婦でしたが、いわゆるバリキャリ的な女性に憧れていました。母は私が小学生の時にスポーツ刈りにさせたり、よく男物の格好をさせたりしたのですが、それは娘が男性に走ったら、そのバリキャリ人生を歩めなくなってしまうから――。だから幼少期に私の女性性を徹底的に刈り取ったのだと思います。
私はその後の人生で、母が望む人生を忠実に生きるように努めたのですが、私が30歳近くなると、母は私に妊娠、出産の要求をにおわせるようになったんです。一般的な親なら、「あるある」なのかもしれませんが、私にとっては衝撃だったんですね。
「えっ? これまで、私の女性性を散々奪ってきたのに⁉」と。そして、どんなに歳を重ねても、そんな母の気まぐれな欲望に心底振り回され、心身ともに激しく疲弊している自分がいたんですよね。