道長の焦りはピークに

この時点で一条天皇には皇子がいなかったが、自身の皇統を絶やさないためには、男子が生まれる必要があった。すでに皇女を産んでいる定子は、男子を産めるかもしれないが、貴族社会から認められていない定子を、ふたたび表舞台に出していいのか。

天皇はおそらく逡巡したのち、長保元年(999)正月、定子を内裏に呼び戻した。いうまでもなく、彼女を懐妊させるためだが、この月のことは、道長の『御堂関白記』にも、実資の『小右記』にも、藤原行成の『権記』にも書かれていない。一条天皇の行動が道長にとって好ましくなく、周囲も道長に遠慮したからだろう。

しかし、道長は気が気ではなかったはずである。父の兼家は一条天皇の外祖父となることで権力を固めた。一方、兄の道隆は、娘(定子)を入内させ、中宮にしたものの、外祖父になる前に病死。定子に皇子がまだ生まれていないことは、中関白家の没落にもつながった。

だから、長女の彰子を一刻も早く入内させ、皇子を産ませたいが、一条天皇は中関白家の定子に皇子を産ませようとしている。当時、後宮を制することができなければ、権力は維持できなかった。道長の焦りはピークに達したものと思われる。

見上愛さん
写真=時事通信フォト
2023年JRA年間プロモーションキャラクターを務める俳優の見上愛さん。「光る君へ」では藤原彰子役=2023年6月25日、兵庫・阪神競馬場

12歳の娘・彰子を入内させた意味

当初は手をこまねいているしかなかった道長だが、手を打ちはじめる。定子が内裏に呼び戻された翌月の長保元年(999)2月9日、道長は、まだ数え12歳にしかならない彰子の着裳(女子が成人してはじめて衣裳をつける儀式)を行った。むろん、入内の準備である。

その後、定子が懐妊したので、道長の焦りは増したようだ。8月9日、お産が近づいてきた定子を、一条天皇は平生昌邸に移したが、公卿たちは天皇から声をかけられながら集まらなかった。道長が同じ日に宇治遊覧を企画し、こちらに公卿たちを呼んだためだった。定子が公卿たちから支持されていないことを、道長は示そうとしたようだ。

9月25日には、彰子の入内について、姉で一条天皇の母である詮子のもとで定めた。人々に和歌を詠ませるなどして入内の調度等が整えられ、11月1日、彰子は入内した。

さすがに12歳では懐妊するのは難しい。だが、定子が皇子を産めば、伊周ら中関白家が外戚になって、権力は道長のもとを離れかねない。だから、まだ産めないにせよ、自分の娘を一条天皇の后にするだけはして、一条天皇にプレッシャーをかけておきたい。道長はそう考えた。

そして11月7日、彰子を女御にするという宣旨が下り、彼女ははじめて天皇を局に迎え入れたが、奇しくも同じ日に、定子は第一皇子の敦康親王を出産したのである。