兄よりえげつないやり方
道長は彰子の立場を少しでもよくしておきたい。そこで奇策を思いついた。一条天皇にはすでに定子という中宮がいたが、彰子も皇后にして「一帝二后」を実現させようと考えたのだ。
かつて兄の道隆は、中宮が皇后の別称であることに目をつけ、ほかに皇后がいるのに定子を「中宮」という名の后にした。后位には「皇后」「皇太后」「太皇太后」の3つ(三后)があったが、天皇が替わると后も替わるという決まりはなく、空席が生じないと、あらたに后になれなかった。このため道隆は、三后に加えて「中宮」という地位をもうけたのだ。
ただし、このときは皇后と中宮は別の天皇の后で、一条天皇の后になったのは定子がはじめてだった。ところが道長は、一条天皇にはすでに定子という「中宮」がいるのに、太皇太后が死去して空席ができたため、一条天皇の后として彰子を押し込もうとした。つまり、同じ一条天皇のもとに2人の后を置こうと考えたのである。
これはあきらかに、兄の道隆よりもえげつないやり方だが、道長はそんなことに構っていられない。藤原行成を使って一条天皇を説得した。定子は后とはいえ出家しているから、神道にまつわる藤原氏の祭祀も行えない。いま中宮にとどまって禄を得ているのは禄盗人のようなもの。だから彰子も后にして、祭祀を司る必要がある――という理屈だった。
結局、長保2年(1000)2月25日、定子を皇后、彰子を中宮にすることが定められ、その後、道長は彰子を懐妊させることに注力することになる。
父や兄の権力闘争を間近で見てきた道長。権力は棚ぼたで手にしても、それを維持し、基盤を固めるためには、「いい人」でいられないことも、父や兄から学んでいたのである。