語彙の豊かさは世界を分析的に把握する力量に直結する
ソシュールは、古代ギリシア時代から連綿と続いてきた、理知的な考察によって真理に到達することができる、という無邪気な「理知原理主義」とも言うべき考え方に、哲学とはまったく異なる側面から、決定的なダメ出しをしたわけです。これがソシュールの指摘が重要だとされる、1点目の理由です。
ソシュールの指摘がなぜ重要なのか、2点目の理由は、語彙の豊かさが世界を分析的に把握する力量に直結する、ということを示唆するからです。先ほどまでは日本語とフランス語、あるいは英語を比較していましたが、同じ日本語を用いる集団の中で、より多くのシニフィアンを持つ人とより少ないシニフィアンを持つ人を比べてみた場合はどうでしょうか。
ソシュールが指摘するように、ある概念の特性が「ほかの概念ではない」ということなのであるとすれば、より多くのシニフィアンを持つ人は、それだけ世界を細かく切って把握することが可能になります。細かく切る、つまり分析ということです。
あるシニフィアンを持つ、ということはあるシニフィエを把握することに繋がります。概念という言葉しか持たない人は、概念という言葉の中に含まれている「シニフィアン」と「シニフィエ」を分けて認識することができません。「シニフィアン」という語彙を持っているからこそ、ある概念が示されたときに、それが「シニフィアン」なのか「シニフィエ」なのか、判別する機構が働くことになるわけで、これはそのまま、世界をより細かいメッシュで分析的に把握していく能力の高低に繋がることになります。
多くの言葉を知っていればより精密な世界が見える
本書で説明している哲学・思想の用語がまさにそうです。これらの用語は日常生活を送る上ではほとんど役に立ちませんが、本書冒頭に示した通り、目の前で起きている事象をより正確に把握するための洞察を与えてくれるはずです。なぜ、概念が洞察を与えてくれるのかというと、それは新しい「世界を把握する切り口」を与えてくれるからです。
まとめましょう。ポイントは二つです。まず、私たちは、自分が依拠している言語の枠組みによってしか、世界を把握することはできないということ。二つ目には、それでもなお、より精密に、細かいメスシリンダーを用いて計量するように世界を把握することを試みるのであれば、言葉の限界も知りながら、より多くの言葉=シニフィアンを組み合わせることで、精密にシニフィエを描き出す努力が必要だということではないでしょうか。