第三の女傑――下着デザイナー下田満智子
(アメリカの得意とする大量生産手法を習得し、日本人の手先の器用さを用いたすぐれた縫製技術があれば、アメリカの下着メーカーとも台頭に渡り合える!)
それは欧米視察の前から、幸一の中で、すでに確信に変わっていた。
だが彼らを凌駕するためには、まだ足りないものがある。それは欧米風の洗練されたデザインだった。
ここに格好の人物が現れる。ワコール生え抜きデザイナー第1号の下田満智子だ。和江商事の救世主は、またしても“女傑”だったのである。
下田は昭和元年(1926)10月3日生まれ。裕福な家庭で育った彼女は、女学校の時、裁縫の先生がフランス人で、和裁ではなく洋裁を教わっていた。すでにブラジャーも作っていたというから、運命的なものを感じる。
そんな彼女が京都に出てきたのは昭和25、6年頃のこと。本格的に洋裁を学ぼうと洋裁学校に入ったのだが、すぐに失望した。あらかじめ用意された型紙にそって、正確に何センチと測って裁断して縫っていく世界だったからだ。
(もっと自由に、自分の思うような服を作りたい!)
学校を退学した下田は、四条河原町の書店でファッション雑誌『ヴォーグ』などを買い、写真を参考にしながら洋裁の仕事を引き受けて我流で腕を磨き始めた。洋雑誌は高かったが、自分への投資だと思って割り切った。
「日本の下着はよくないですね」
そんな下田が幸一と出会うきっかけを作ったのが四太郎会だった。
たまたま下田は四太郎会のメンバーである近藤庄三郎と知り合い、
「洋裁をやってるんだったら、塚本君を紹介してあげよう」
と言われ、引き会わせてもらうことになったのだ。
デザイナーを探していた幸一にすれば渡りに船だ。すぐに面接することとなった。
ところが面接の場で、下田は驚くべき発言をする。
「日本の下着はよくないですね」
そう口にしたのだ。
これまで洋裁の仕事で採寸する際、お客さんに下着姿になってもらうたび、ため息をついていた。下着が体形に合っていないためにトップバストの位置が下がって胸元のラインが崩れてしまっている。デザイン以前の問題だ。
面接の際、いい機会だと思ってそのことを率直に口にしたのだ。
役員たちが思わず顔を見合わせる中、幸一だけはニヤニヤ笑っていた。
(これはまた骨のある女性だな……)
かつて渡辺あさ野に、
「そんなやり方して儲かってへんのと違いますか?」
と頭ごなしに言われた時のことを思い出していた。
(おしとやかなだけの女性に用はない)
その場で採用を決めた。
こうして下田は下着ブームが起こった昭和30年(1955)に入社することとなる。この時、下田は29歳。渡辺より5歳年下。内田より2歳年上。
第三の女傑の華麗な登場であった。