ブラジャーへの本格的進出を試みる
(前回からつづく)
「和江さん、申し訳ないが、おたくのブラパットはもういいよ」
取引先の半沢商店から、突然告げられたのは、ブラパットとコルセットの売れ行きが共に好調で、会社の収支がようやく黒字に転じたときだった。
理由を聞けば、ラテックス(ゴム原料)製ブラパットが出回り始めたからだという。それを手に取ってみた瞬間、幸一ははっきりと悟った。
(こらあかん……)
柔らかくて、針金の入った従来のブラパットとは比べものにならない装着感だ。値段は高いのだが、それでも従来品はあっという間に駆逐されていった。
これでブラパットを卸すことはなくなり、コルセットの仕入れだけが残った。
コルセットの売上げは順調だったが、幸一は物足りないものを感じていた。それは女性下着を扱っていながら、肝心のブラジャーの品ぞろえがなかったことだ。
そしていよいよ、ブラジャーへの本格的進出を試みることとなるのである。
そもそもブラパットは洋服の裏に縫い付けるため手間がかかる。それに比べブラジャーは着けやすく、すでに中島武次という人物が昭和23年(1948)に大阪の高槻で中島商事を設立し(設立の翌年にはニュールックと社名変更)、ブラジャーの製造を始めていた。
八幡商業時代の人脈で「端切れ」を入手
負けてはいられない。自分でも作ってみようと考え、シアーズ・ローバックのカタログの中のブラジャーの写真を手本に、見よう見まねで型紙作りから始めることにした。
モデルが必要だ。妻の良枝に声をかけた。
「ちょっと胸貸してくれるか?」
最初は驚いていたが、こころよく協力してくれた。
仕事が終わってから採寸を始め、深夜までかかってボール紙で型紙を起こした。これを縫製業者に出して第1号自家製ブラジャーが完成したが、良枝が試着するまでもなかった。洋裁の知識のない幸一は、型紙に縫い代を入れることさえ知らず、おもちゃのようなものができあがってしまったのだ。
気を取り直し、縫い代も考えた型紙でいざ生産に入ろうかと思ったが、今度は肝心の生地が足りない。衣料品はこの当時、統制品だったからなかなか手に入らなかったのだ。
ここでまたも八幡商業時代の人脈が生きた。
同級生が京都の浜口染工という会社の経営者一族だったつてを頼り、反物の端切れを手に入れたのだ。ブラジャーは小さなパーツを縫い合わせてできているから端切れでも縫製できる。それに端切れは統制の対象外だ。
こうしてようやく和江商事オリジナルのブラジャーができあがり、新商品第1号であることから「101号」と命名された。カップのサイズは同じだったが、脇布の長さでSMLの3段階にして売り出した。