会社の将来を託せる「主力商品」の市場
春はファッションの季節だ。昭和24年(1949)の春も、塚本幸一が設立した和江商事(※ワコール創業当時の会社名)の女性用装身具の販売は順調だった。
だが手放しで喜ぶことはできない。流行は大きく変化するためだ。模造真珠だ、ブローチだ、竹細工だ、水晶ネックレスだといろいろ扱ってきたが、安定して売れる商品がなかなか見つからない。
最初のうちは、それが商売をする上での面白味でもあったのだが、会社を大きくする上で、絶えず流行を追うのは危険すぎる。
そこで幸一が目を付けたのが女性下着の世界だった。
女性下着には大きく分けてファウンデーションとランジェリーの2種類がある。
ファウンデーションは身体のラインを美しく補正する下着のことで、幸一がまずはターゲットにしたブラジャーとコルセットがこれにあたる。それに対してランジェリーは補正された身体と服の間に着るもので、ペチコート、ショーツ、ガードル、ネグリジェなどを指す。
幸一は、ブラジャー・コルセット・アソシエーションという業界団体がアメリカにあることを突き止め、手紙で問い合わせてみた。
すると、なんと昭和18年(1943)年の売上げがアメリカ国内だけで2000億円近くあることがわかった。昭和24年の日本の国家予算は7410億円である。米国の市場が日本とは比較にはならないほど巨大なものであったとはいえ、女性下着市場の大きさは容易に理解できた。
(これから日本の女性は絶対洋装化する。洋装になったら体型を補正する下着がアメリカのように売れるはずだ)
目指していた大企業への道がここにあったのだ。
その予感が確信に変わったのは、ある商品との出会いがきっかけであった。
幸一と「にせオッパイ」との出会い
同年の8月初め、大宝物産社長の安田武生という人物が“オマンジュウのようなもの”を持ってやってきた。
アルミ線を蚊取線香のように巻きあげたスプリング状のものに古綿をかぶせ、布にくるんでバストラインを補正するよう作られたものだ。幸一は後に“にせオッパイ”と冗談めかして表現したが、これこそ女性下着に進出するきっかけを与えてくれた「ブラパット」だった。
ところが安田はこの時、気になることを口にした。
「実は青山はんにも買ってもらいまして」
“青山はん”とは宿敵青山商店のことである。いつもアクセサリーの販売で競合している相手だけに負けるわけにはいかない。
(この商品が日本中で流行するかどうか、試すならやはり東京や。東京で売れたら絶対売れる)
東京で売ることでライバル青山商店の機先を制しようとしたのである。