会社設立を機に「女性社員第1号」を採用
昭和24年(1949)10月5日、父粂次郎が他界する。55年の生涯だった。
前年8月、張り切って九州まで行商に行ってくれたはいいが、猛暑と疲労が重なって帰宅後熱を出し、慢性の心臓疾患もあって、その後、急に衰弱していってしまったのだ。
(そもそも親父が寿命を縮めたんは、病気がちやった親父を手伝わせんといかんほど、自分が和江商事をしっかりした会社にできていなかったからや……)
深い悔恨が彼を苛んだ。
幸一は父の死を契機に、和江商事の法人化を決めた。世間から一人前と認められる株式会社にすることが亡父への一番の供養だと考えたからだ。
昭和24年11月1日。父の死の1カ月後にあたるこの日が、ワコールの創立記念日となった。
会社設立を機に、幸一は二つのことを行った。一つは自分の呼び名を大将から社長に変えさせたこと。そしてもう一つが、初めて女性社員を採用したことだった。
最初は事務の女性を雇ったというにすぎなかったが、やがて幸一は女性の持つポテンシャルに気づき、彼女たちの力を大いに引き出していく。女性活用こそが、ワコール発展のカギであり、同時に塚本幸一という経営者の強みとなっていく。その歴史はまさにこの昭和24年にはじまったのだ。
そして栄えある女性社員第1号が内田美代と長谷川照子だった。
長谷川は女子事務員としてはすこぶる優秀だったが早くに退職した。ひと昔前まで女性社員の典型であった寿退社であろう。詳しい情報は残っていない。
だが一方の内田美代は、時代の枠を越えた女性だった。“キャリア・ウーマン”のはしりと言っていいだろう。後に和江商事の飛躍のきっかけとなる一大イベントで獅子奮迅の働きをする。
陸軍軍人の家に生まれた内田美代
昭和3年生まれの内田は、この時21歳。陸軍軍人の家に生まれ、戦前は裕福だったが、陸軍大佐だった父がニューギニアで戦死し、敗戦によって戦時公債が紙くずとなると、一気に貧しい生活を強いられることになる。
3人姉妹の真ん中だったが、上の姉は嫁に行き、内田が家を支えねばならなくなった。桃山高等女学校(現在の京都府立桃山高校)卒業後、義兄の紹介で日本輸送機(現在の三菱ロジスネクスト)に入社し、設計課で事務員として働き始める。
そんなある日、ふとしたことから和江商事を知ることになった。
町内会長がある日、家を訪ねてきてこう言ったのだ。
「友達が和江商事いう会社やってて、女子事務員を探しとるらしいんや。おたくの美代ちゃんどうやろ?」
彼は幸一の八幡商業の同級生だった。
日本輸送機は立派な会社だったが、戦後は厳しい経営状態が続き、レイオフの噂が出ていた。友達思いの町内会長の押しの強さもあって、
「面接だけでも受けてみたら」
と母親も加勢してきた。
多勢に無勢である。説得に負けた彼女は翌日、とりあえず面接に行くこととなった。
(えっ……これが会社?)
日本輸送機とは段違い。外から見たらただの民家である。
雑多な商品が所狭しと並べられ、土間から一段高くなった畳の部屋では、一生懸命荷造りしている人がいる。
「すみません……」
内田が声をかけると、梱包のクッションにしていた藁くずをいっぱいつけたまま、その男が振り返った。それが社長の幸一だった。