世界有数の女性下着メーカーとして知られるワコールは、戦後の日本で生まれている。製販一貫システム、フォード生産方式を導入し、商品開発力を磨いてきたが、まだ足りないものがあった。それは洗練されたデザインだった。作家・北康利さんの新著『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』(プレジデント社)より、一部を紹介しよう――。
室町本社工場前でワコール野球チームのメンバーと。スーツ姿が幸一〔昭和30年(1955)4月30日撮影〕
室町本社工場前でワコール野球チームのメンバーと。スーツ姿が幸一〔昭和30年(1955)4月30日撮影〕出典=『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一

「経営の神様」でさえ就職が厳しかった時代

昭和29年(1954)は朝鮮特需の反動による不景気が世を覆い、和江商事(※ワコール創業当時の会社名)も苦しんだ。

出張に使う列車は一時、2等に乗ることもあったのだが、再び社長以下全員3等にすることを徹底した。社用煙草の銘柄もゴールデンバット(最安値の両切り煙草)に落として経費削減に努めた。

そこまでならどの企業も同様だったろう。塚本幸一という経営者が非凡だったのは、不況にあって守りながらも攻めることを忘れなかったことだ。相場で言う“逆張り”の発想である。

彼が着目したのは未曾有の就職難だ。大卒でさえ就職が厳しい状況になっていた。

ちょうどこの頃に就職活動をしていた鹿児島の青年がいる。鹿児島県立大学(現在の鹿児島大学)工学部卒業を目前にしながら採用してくれるところがなく、思い詰めたあげくヤクザにでもなってやるかと天文館の組事務所の前をうろうろしたほどだった。

教授の紹介でなんとか入った京都の碍子メーカーも、給料の遅配が常態化した倒産寸前のボロ会社であることがわかり、独身寮の裏の小川の岸に座りながら童謡「ふるさと」を歌って一人涙ぐむ日々を過ごしていた。彼の名を稲盛和夫という。後に京セラを設立する彼でさえ、この頃は就職口を探すのに四苦八苦していたのだ。

逆張りの発想で得た貴重な「人財」

(有名企業も採用数を極端に絞っている今だからこそ優秀な人材を確保できるはずだ!)

幸一はそう考えた。“企業は畢竟人だ”というのは、彼の中で変わらぬ信念だった。

ここで彼は求人広告を出すといったありきたりな方法をとらなかった。

昭和28年(1953)10月から取締役に列していた義弟の木本寛治に、かつての彦根高等商業学校の同期であり滋賀大学経済学部で教鞭を執っていた高田馨教授を訪ねさせ、優秀な学生を紹介してほしいと依頼したのだ。

そのおかげで高田門下の俊秀が次々と和江商事に入社してくれた。

これは求人広告を出して採用するのとは決定的に違う。高田教授は不景気に採用してくれたのだから当然恩を感じる。そうすると好景気の時も、継続的に学生を紹介してくれるというわけだ。

そんな高田門下の精鋭たちが、その後のワコールの快進撃を支えてくれるのである。