時代に先駆けた「産学連携」
幸一は大卒の新卒組を塚本家の離れ座敷の2階に住み込ませ、1年間、寝食を共にして鍛えることにした。当時はもう丁稚制度は廃れていたが、松下幸之助などが船場で商いの基本を身につけた話は有名だ。その教育システムを取り入れようとしたのである。
昭和29年(1954)の暮れ、教え子がしっかりやっているか気になったのだろう。高田教授が和江商事を訪ねてきた。
「うちもそこそこの規模の会社になりましたが、この世界では“雑貨屋とおできは大きくなるとつぶれる”という言葉があります。ここからが正念場やと思っております」
この言葉は本心だった。
「種類やサイズが増えて事業が大きくなるにつれ、商品管理が難しくなって過剰在庫や不良在庫を抱えやすくなるんですわ」
幸一は高田に、そう悩みを打ち明けた。
すると高田はこう答えた。
「それはまさに私の専門分野ですな」
そして彼は自分が研究している、在庫管理を数理処理して効率的にしていく商品管理システムについて解説してくれた。
(これは使える!)
大いに心動かされた幸一は、すぐに採用を決め、昭和30年(1955)3月1日、商品管理課が設置されることとなった。
「好況よし、不況さらによし」を実現
ここで抜擢されたのが、高田門下生で経理に配属されていた伊藤文夫(後の副社長)である。大学で学んだ知識を生かせる機会だけにやる気十分だ。その年の春に入社した4人の大卒新人を教育し、システムについて習熟させたところで各事業所に配置し、商品管理を行うようになった。
人と一緒に技術をも取り入れ、今で言うところの産学連携を、すでに幸一は時代に先駆けて実現していたのである。
昭和30年に入ると、前年の不況が嘘のようになり、ブラジャー、コルセットの売上げが伸び出した。
ここから前年比3、4割増しで売上げが増え、新聞や雑誌に“下着ブーム”の文字が躍り始める。不況の時に無理して採用した大卒社員が活躍し、高田教授から教わった商品管理システムが大いにその実力を発揮し始めた。
松下幸之助の言葉に「好況よし、不況さらによし」というのがある。
景気には必ず波がある。不況だからと落ち込むことなく、むしろ不況で生じた社内の緊張感を好機と捉え、社員一丸となって問題点を解決し、体質改善に成功した企業だけが次の好況の波で大きな飛躍を期待できる。
それを幸一は見事実現させたのである。