京都のロミオとジュリエット
復員して5年近く経ったある日のこと、京都の街に明りが灯ろうとしていた。
“はんなり”という京言葉があるが、夕間暮れの京都には雅な言葉がよく似合う。ことに周囲の山々が色づき始めると、行き交う人々もどことなく浮き足立つ。平安絵巻のような紅葉を楽しめる季節が、ついそこまでやってきていた。
「おーい、おーい」
太秦の撮影所から出てきたかのような長身の二枚目が、自転車にまたがったまま京町家の2階に向って声をかけている。誰あろう塚本幸一だった。まるで劇中の1場面。さしずめ2階にいるのはジュリエットか。
ほどなく2階の戸が開くと、そのジュリエットが下りてきた。ところがこちらは意外なほど普通の女性。いやむしろ堂々たる物腰で、まだ若いのに“関西のおばはん”の雰囲気を醸し出している。
「塚本はん、そんな大きな声だしはったら大家さんに聞かれてしまいますがな!」
ジュリエットは当時一般的だった“2階借り生活”をしていたのだ。
彼らが恋人同士でないことはすぐわかる。階段を下りてきた彼女が慣れた様子で荷台に乗ると、彼は勢いよくペダルをこぎ始めた。
和江商事飛躍のための「秘密兵器」
京都の御池通を西に向う。
戦争直後のため車の往来は少ない。まだ舗装されていない砂利道で走りにくかったが、車を気にする必要がない分、気は楽だ。
当時も自転車の2人乗りは禁止である。
「ポリスマンにつかまったらどうすんの?」
「そんなもん『お母はんが亡くなったんや』言うといたらええねん!」
こうなると映画の世界どころかまるで夫婦漫才だが、幸一はクールな表情を崩さない。
風がなびくと男ぶりがさらにあがる。すこぶるつきのいい男が、若い女性と2人乗りしているのだ。いやが上にも目立つ。
道行く人はみな振り返った。
すると後ろに乗っている女性の表情が次第に緩んでくる。幸一に気づかれないようにしながらも、自然と笑みさえこぼれてきた。それはそうだろう。こんないい男に乗せてもらっているのだ。嬉しくないわけがない。
彼らが到着した先は室町のとある町屋。和江商事と書かれた看板がかかっている玄関を奥に行くと中庭がある。そこに建つ洋館の3階に、何台ものミシンが並ぶ部屋があった。
そこに立った瞬間、彼女はがらりと表情を変え、きりっと引き締まった。
「さあ、始めましょか!」
女性の名は渡辺あさ野。
彼女こそ、和江商事(※ワコール創業当時の会社名)飛躍のための“秘密兵器”だった。